虎党のやりきれなさが甲子園に充満する中、延長戦が再開された。1992年9月11日の阪神―ヤクルト18回戦。3―3の9回2死一塁から八木裕が左翼に放った打球は、いったんは本塁打と判定されたがエンタイトル二塁打となり、阪神のサヨナラ勝ちも幻となった。阪神を率いる中村勝広の猛抗議も実らず、10回表が始まった。

中村 サヨナラ勝ちの判定が覆って、とにかくこの試合は絶対に負けられないと思いました。実際、チャンスはありました。

現在は阪神でGM職に就く中村は、当時をそう思い起こした。延長15回、2死から好機をつくった。現在の阪神監督で当時は「1番・二塁」で先発出場していた和田豊が8度目の打席に立ち、4本目の安打で出塁。亀山努が左前打で続き、T・オマリーは敬遠されて満塁となった。だがあと1本が出なかった。山脇光治が三振に倒れ、試合は引き分けに終わった。「今も悔いが残る。申し訳ないことをしました」という山脇の深い嘆きを、中村はのちに聞いた。

中村 ただ、試合には負けなかった。あとの流れを考えたら勝たなければならない試合だったが、あの時点では負けなかったことでまだまだ巻き返せると思えたんです。

翌日、というか試合終了時でいえば即日の9月12日。ヤクルト19回戦で阪神は6―2と快勝した。2―1の4回、プロ4本目の満塁弾をかけたのは木戸克彦。前夜の延長戦で、野手でただ1人ベンチに残っていた木戸がヒーローになった。木戸は現在、阪神のGM補佐を務める。85年日本一の正捕手も、92年はその座をプロ5年目の山田勝彦に明け渡し、湯舟敏郎の〝限定捕手〟になっていた。だがその日は法大の後輩、猪俣隆とシーズン初のバッテリーを組んだ。

木戸 チームメートの顔を見たら、一夜明けても疲れきっているのがわかった。12日のその試合は、絶対に勝たなあかんと猪俣と話したのを覚えています。ぼくは湯舟が投げるときしか出番がなくて、1週間にほぼ1回。出番が少ない分、任された試合は絶対に勝たなければという責任感があった。当然、出た試合は全部勝ちたかった。

湯舟とのバッテリーで、同年6月14日の広島戦(甲子園)では無安打無得点試合も達成。9月12日も猪俣を6回2安打の好投に導いた。同13日は和田のサヨナラ打でヤクルトを沈め、長かった3連戦を2勝1分け。ヤクルトを首位から引きずり降ろし、歓喜のゴールを視界にとらえた。

だが勝てなかった。9月22日からの4連敗で同26日に再びヤクルトに抜かれ、10月4日からの5連敗で力つきた。

シーズン終了後の10月28日、平光審判は引退を発表。「あれでプツンと切れました。引き時だと思いました」と9月11日の幻の本塁打判定を振り返った。

中村 はっきりしていて、ジャッジもシャープだった。球場であいさつする程度の間柄だったが、知的だし、信頼できる審判だと思っていた。のちに評論家として活躍された。よかったと思います。あの判定で埋もれてしまうには惜しい人だった。9月11日の試合のときも潔かった。「責任を取ってやめる…」というのはなかなか言えるものではないと思っていました。

名物審判の運命も変えた試合だった。【堀まどか】(敬称略)