三原の長女敏子は、父親の教え子で“怪童”の異名をとった中西太のもとに嫁いだ。三原が西鉄監督で2度目のリーグ優勝を果たした1956年(昭31)に結婚する。

三原と夫人妙子(たえこ)の間には、男4人、女1人の子供がいた。愛娘の敏子は、成城で育った1人娘のお嬢様。かたや中西といえば、黄金期の西鉄を支えた伝説のスラッガーだ。

都内の閑静な住宅街で暮らす猛者の中西と上品な敏子だが、間近でみてきた2人のやりとりは“美女と野獣”…。敏子が父三原脩を語るのは初めてのことだ。

「わたしが子供の頃からほとんど戦地に行ってるからあまり記憶にないのですが、小学に入学したときは学校から帰ると予習、復習をかなり厳しく言われました。4月に入学すると10月1日には軍隊にいきまして、小学5年の5月に最後のビルマから家に帰って、間もなく巨人監督です」

三原は巨人軍の前身、大日本東京野球倶楽部に、プロ野球契約第1号選手として入団した名内野手だった。当時同じ釜の飯を食ったのは、中島治康、平山菊二、川上哲治、千葉茂らだった。

前後3回にわたって兵役に服する。1937年に2度目の召集令状だった上海事変で、銃弾が左太ももを貫通。戦争体験は生きていく上で自信になった。名声が高まったのは、コーチから監督に就いてからだ。

三原は勉学にうるさい父親だったが、戦争から帰還した後は一転した。敏子は東京家政学院に通った高校時代を回想する。

「中学の頃も予習、復習までは言われなかったのですが、かなり勉強のことは言われました。でも高校では勉強しなくていいと言われたんです。女の子は中学までで、高校にいったら社会学を勉強しなさいと。だから父がナイターだと、試合前に学校を早退させられました」

三原は敏子に「学校は午前中でいいから帰ってきなさい」といって外に連れ出した。

「父と母と一緒に銀座のへんに連れていかれてお食事をしたりするんです。でも食べたものをちゃんと覚えておかないといけない。どういうものが入っていたか、何日後かに『あそこで食べたものを作りなさい』と言われるんです。いわゆる花嫁修業みたいなものでしょうね」

そのため敏子はレストランでだされた料理を食しながら、シェフに問うのだった。「そこに入ってるものがわからないと、これ何が入ってるんですか? って質問してました」。娘もまたメモをとるなど、父の教えを守り続けた。

三原は監督3年目の1949年、巨人を戦後初の優勝に導いた。

「学生時代は巨人の試合はあまり見に行ってませんが、選手のみなさんはよく家にきていました。母とお料理を作るんです。巨人が優勝したときにパーティーに連れていってもらったのは覚えています」

三原の厳格さと人柄は選手の心をつかんだ。「巨人軍に血が通い合った」。しかし手応えをつかんだにもかかわらず、その座を追われるのだった。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

 

 

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