日刊スポーツはオリックスの25年ぶりリーグ優勝を記念し、「火曜B」と題したスペシャル企画を来年1月末まで毎週火曜日にお届けします。第3回は現役時代に最後の阪急戦士としてプロ野球最長の実働29年、そして今季、古巣の指揮官就任1年目で大輪を咲かせた中嶋聡監督(52)特集です。記者の取材ノートをひもとき秘話を紹介します。

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阪急、オリックスの黄金時代を知るフロントが、新時代の優勝監督を生んだ。コーチを務めていた日本ハムから中嶋を古巣に呼び戻したのは、当時球団本部長の長村裕之(63)だ。現役時代はバッテリーコーチと正捕手で、師弟関係にあった。扇の要としての目配り、気配りも含めて、手塩にかけて育てた。

リーグを代表する捕手になった中嶋は、97年オフにメジャーを目指してFA宣言。だが契約はまとまらず、西武へ。その後、横浜、日本ハムに移り、07年から1軍バッテリーコーチを兼任。このキャリアが、決め手となった。「バッテリーコーチと選手を兼任して、選手、コーチの両方を自分が背負ってやっていくことが一番勉強になったのかなと、彼を見ていて思いました」。長きにわたり、人と違う道を歩んできた野球人生に、長村は目を向けた。

しかも、長寿の捕手で46歳まで現役を勤めた。「投手からの信頼がなければ、その年齢まで捕手はできない。兼任を経験したことと合わせ、いい指導者になる資質だと思ったんです」。

日本ハムも、15年に現役を引退した中嶋を2年間、パドレスに派遣し、チームの将来を託す指導者としての育成に本腰を入れていた。当時日本ハムGMの吉村(現統括本部長)に対し、長村はオリックスにとってどれほど必要な存在かということを丁寧に説明し、日本ハムの理解を得た上で中嶋の復帰への道をつけた。若手を鍛えたいという本人の意向で、オリックスでのキャリアは2軍監督からスタートした。その中嶋に1軍を託したのは、GMの福良淳一(61)だ。

球団社長の湊通夫(59)は「ともに強いチームを作っていきたい」という意向で福良GMに人事を委ねてきた。昨年8月20日、最下位低迷の責任を取り、西村前監督が退任。その後任に「コーチ経験も長いし、育成にもたけている。ゲームメークもできる。最適かなという判断」と1軍監督代行に起用。「育成と勝利は一番難しいところ。そこもうまくできている」。ファーム育成を望んだ中嶋2軍監督が1軍指揮を受け入れたのも、GMとの信頼関係があればこそ。シーズン終了後、1軍監督就任が決定。「一緒に強いチームを作ろうというお話をいただいた」(中嶋監督)。オリックスを愛する男たちのトライアングルが、船出から1年での快挙を導いた。(敬称略)

【遊軍=堀まどか】

◆長村裕之(ながむら・ひろゆき)1958年(昭33)12月12日、徳島県鳴門市生まれ。鳴門工(徳島)-駒大を経て80年ドラフト2位で阪急入り。88年の現役引退後、オリックスの1、2軍バッテリーコーチなどを歴任。05年以降はフロントで球団副本部長兼編成部長などを務め、13年は2軍ヘッドコーチ兼チーフバッテリーコーチで現場復帰。16年10月から球団本部長兼編成部長を務め、19年末でオリックスを退職した。

◆福良淳一(ふくら・じゅんいち)1960年(昭35)6月28日、宮崎県生まれ。延岡工-大分鉄道管理局を経て84年ドラフト6位で阪急入団。93~94年に二塁手のプロ野球記録となる連続836守備機会無失策。97年現役引退。98年からはオリックス、日本ハムでコーチや2軍監督などを歴任。13年からオリックスのヘッドコーチ。15年6月から監督代行、16~18年は監督を務めた。19年は育成統括GMを経て、同6月1日からGMに就任。

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