阪急ブレーブスの黄金時代の遊撃手だった阪本敏三氏が3月22日に、パーキンソン病のため、兵庫県内の病院で死去していたことが分かった。78歳。すでに告別式は家族だけで執り行われた。

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阪本夫人の泰子さんからは「ずっと元気だったのに、本当に急なことで、なかなか気持ちの整理がつきませんでした。野球との出会いには感謝してます。寺尾さんのインタビューが最後の取材になりましたね」と告げられて恐縮した。

京都生まれの阪本さんは、平安高から立命大に進学した。当時の関西6大学野球連盟では7季連続の“盗塁王”に輝いた韋駄天(いだてん)ぶりだった。

ノンプロの河合楽器を経て、66年ドラフトで阪急入り。時の監督は名将・西本幸雄さん。インタビューの中で阪本さんは、初めて西本さんと会ったシーンを鮮明に覚えていた。

「わたしには怖いイメージが強かったので、入団したときに恐る恐るあいさつしたんです。ところが西本さんが『一緒に頑張ろうな』って励ましてくれて、ほっとして、すごく優しい人だと思いました」

すぐに闘将の素顔に接して震え上がった。阪本さんはルーキーイヤーの春先から「2番遊撃」に抜てきされ、レギュラーとして出場し続けた。

「ベンチに座ってると、後ろから西本さんがベンチを蹴り上げるんです。それがものすごい音で、ベンチは静まりかえった。強烈に練習をさせられました。でも厳しさの中に愛情があった」

阪本さんは1967年に西本監督で果たした初のリーグVに貢献すると、計4度の優勝にかかわった。阪急が築いた第1次黄金時代から堅実な守備に定評のある内野手だった。

語り草は71年の巨人との日本シリーズだ。1勝1敗の第3戦。先発の山田久志さんが8回まで2安打に抑え、1-0の最終回だった。1死一塁から3番長嶋のゴロが二遊間を転がって中前打になった。

阪本さんの守備は緩慢と厳しく指摘された。阪本さんは「前打席でレフトフライだった長嶋さんは必ず引っ張ってくると思ったんです。だから三遊間に2歩動いた。逆を突かれました」と振り返っていた。

その直後、山田さんが王貞治さんにサヨナラ本塁打を浴びて沈んだが、当時を振り返った阪本さんは「巨人に圧迫された」と潔く負けを認めた。“悲運の名将”といわれた西本さんはまたしても巨人の前に敗れ去った。

夫人の泰子さんは「施設で車椅子になるまではソフトボールにも参加し、ベースボールカードにサインしてうれしそうだったし、ブレーブス(オリックス)の応援にも出掛けてたんですよ」と回想した。

阪急の後は、日拓、日本ハム、近鉄、南海と渡り歩き、コーチとしても尽力した。阪急の黄金時代を知る職人肌の男は、静かに旅立っていった。【寺尾博和】