2019年9月、若手指揮者の登竜門として知られる「ブザンソン国際若手指揮者コンクール」で、沖澤のどかさんが優勝しました。過去には小澤征爾さんらも優勝している大会で、沖澤さんでちょうど日本人10人目の快挙でした。

先日、彼女が指揮者として登壇する日本フィルハーモニー交響楽団の第732回定期演奏会を聴きに行きました。公演には、09年に世界最難関とも言われる「ハノーファー国際コンクール」を史上最年少の16歳で優勝したバイオリニストの三浦文彰さんも登壇していました。

沖澤さんは音楽を愛する思いが強く、全ての音色を体全体で取り入れているかのような大きな指揮でその場の空気を作っているようでした。自身が立つオーケストラピットの中心が、演奏を最も肌で感じられる最高の特等席だと思っているようにも見えました。

現在はベルリンに拠点を置き、現地でも活躍されています。僕は彼女の指揮者としての立ち居振る舞いや思い、目指すところなどを知り、日本の指導者が海外で活躍するために必要なことが少し理解できた気がしました。指揮者には音楽的な部分も当然求められますが、それ以外のマネジメント能力やコミュニケーション能力なども重要な才能だということです。

以前、沖澤さんは「あなたの指揮はわかりやすいけど、表情が足りない」とよく言われたそうです。ある時は「礼儀正しすぎる」「礼儀正しいことはいいことだけれども、必ずしもオーケストラのメンバーはそれを指揮者に求めていない」とも言われたそうです。その時について沖澤さんは「これだけやっても足りないというギャップにショックを受けて、この世界で通用するようになるには音楽を勉強しているだけではダメだなと。コミュニケーションや人の生き方というのを現地に行って学ぶ必要があるなと気づいた」と語っていました。

こうして今の彼女の表現が作られているわけですが、こうしたエピソードは日本のサッカー指導者育成にも共通するのではないかと感じました。多くの日本人指導者は海外の指導法に憧れています。どうやって学んでいるのかと聞くと、多くの人が「動画やその人が出している本を読んで…」と答えます。僕は毎回ここに疑問を持っていました。その憧れの指導者がもしスペイン人なら、その人が持っている本はスペイン語のものであるべきです。しかし、言葉がわからないので、きっとそれは日本語訳されたものだと思います。日本語訳されているということは、本人ではない誰かが通訳として介入していることになります。通訳を介すことで言葉の表現が変わってしまうということを理解していないのです。

僕は昔、大宮アルディージャで通訳をしていました。もちろん本人の言葉と相違なく伝えられるよう努力しますが、通訳を挟んだコミュニケーションでは言葉のニュアンスの違いはどうしても生じてきます。仮にスペイン人の指導者だとすれば、もしかするといったん英語に訳され、それを日本語に訳している可能性があります。そうなれば知らない人が2人も介入していることになり、もはやそれはその指導者の言葉ではありません。

では実際にするべきことは何か。それは現地に行くことです。その人が生まれた街まで行き、どんな匂いの、どんな色の、どんな気候の中で育ったのかを感じ、そこで地元の人にたくさん話を聞くべきです。本人に聞けなかったとしても、その場に行って、その人と同じ空気を吸うことがどれだけ大事かということを知ってもらいたいです。

今は海外挑戦する指導者も増えてきましたが、まず大事なのはその国を知ることです。その上で、その国の文化や大事にしている国民性などを理解して、そこから指導者としてスタートするべきです。

僕は指導者に必要な能力と指揮者に必要な能力は同じだと考えます。Jリーグを見ても、ほとんどの指導者がグルグルと各チームを回っているだけで、全く面白くありません。これでは若手の指導者が入り込む隙がないどころか、成長を促す機会もありません。選手は次々と世界へ挑戦し、どんどんレベルも上がっていくと思います。そのうち日本代表は全員海外組になる可能性があります。そうなった時に選手は何を思うのでしょうか。

現状では、日本だから成立できている指導者が多い可能性があると僕は思っています。選手育成も課題ですが、それ以上に指導者育成はもっと大きな課題です。沖澤さんの指揮者としての立ち居振る舞いを目の前で見たことで、改めてサッカー指導者が取るべき行動が見えたように思えます。

2050年、日本はワールドカップ優勝を掲げています。僕は有言実行がどれほど大事か知っているつもりです。この大きな目標が偽りにならないよう、これからも僕なりの角度でメッセージを発信していきたいと思います。

◆安彦考真(あびこ・たかまさ)1978年(昭53)2月1日、神奈川県生まれ。高校3年時に単身ブラジルへ渡り、19歳で地元クラブとプロ契約を結んだが開幕直前のけがもあり、帰国。03年に引退するも17年夏に39歳で再びプロ入りを志し、18年3月に練習生を経てJ2水戸と40歳でプロ契約。出場機会を得られず19年にJ3YS横浜に移籍。同年開幕戦の鳥取戦に41歳1カ月9日で途中出場し、ジーコの持つJリーグ最年長初出場記録(40歳2カ月13日)を更新。20年限りで現役を引退し、格闘家転向を表明。同年12月には初の著書「おっさんJリーガーが年俸120円でも最高に幸福なわけ」(小学館)を出版。オンラインサロン「Team ABIKO」も開設。21年4月に格闘技イベント「EXECUTIVE FIGHT 武士道」で格闘家デビュー。175センチ、74キロ。(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「元年俸120円Jリーガー安彦考真のリアルアンサー」)