異色の世界王者が誕生した。IBF世界スーパーフェザー級4位尾川堅一(29=帝拳)が同級5位テビン・ファーマー(米国)を2-1の判定で下して世界初挑戦でベルトを手にした。日本人の米国での王座奪取は81年三原正以来5人目で13連敗を止めた。15年に死去した父雅一さん(享年53)の影響で2歳から明大卒までは日本拳法一筋。厳しい父の元で鍛え上げた拳に自信を持って転向して7年目で、世界の頂を極めた。

 リングを蹴り、一気に間合いを詰め、右拳を直線的軌道で打ち抜く。生粋のボクサーではないからこその遠めから鋭く踏み込んでの右ストレート。人生初海外の米国でも、尾川は愚直に無類の武器を信じ続けた。36分間。決定打は多くはなかったが、ひるまなかった。判定で「オガワ!」の声がこだまするとほえた。「リングの上では信じられなくて。これで人生が変わる」と歓喜に満ちた。

 競技歴は7年にすぎない。父雅一さんの影響で記憶がない2歳で始めたのは日本拳法だった。小柄な少年は体重無差別の格闘技で、異彩を放った。打つ、蹴る、投げる。3本勝負で有効打で一本だが、その勝ち方は「95%が打撃。そんなのは自分だけ」。体重が倍の相手にも勝ち、高校無敗、明大では団体3連覇。卒業後に拳闘の世界に入った。

 「小1からお父さんは厳しかった」。スピードを醸成したのは過酷な特訓。1キロのダンベルを持ち、右、左など計400本の打ち込みが日課で、自宅の廊下で汗だくで何時間もやり続けた。父が怖くてずるはできない。この日の右ストレートにつながる一撃必殺の武器の源泉だ。一番教わった胴打ち=ストレートボディーは、巧みな守備のファーマーを遠方からとらえた。7回、10回には右で顔面を揺らして棒立ちにさせた。

 父は日本王者になる直前の15年に脳出血で死去した。指導の厳しさから小学校では顔面がけいれんすることもあった。熱が出ても、箸を握れないほど手が痛くても、休みは許されなかった。ただ、父は息子が自慢。試合の映像を周囲の人に配ってもいた。「死後に聞いても。最後まで見て、面と向かっておれを褒めろよと。ただ、自分が作られているのは父がいたから。影響が強すぎて悔しい」。複雑な心境はいまもある。

 体重無差別の拳法で無敵だった男の野心は、本場のリングで結実した。日本人として36年ぶりの快挙。「名前を刻むのが最大の目標だし、人生を生きているからには世界一になりたかった」。父の遺産は、息子の拳に宿っていたことだけは確かだ。

<尾川堅一(おがわ・けんいち)アラカルト>

 ◆生まれ 1988年(昭63)2月1日、愛知県豊橋市生まれ。

 ◆拳法一家 父母、姉妹も選手。姉奈緒子さんは高校3冠。愛知・桜丘高から明大に進学した本人は、「いまもボクシングに違和感はある」。

 ◆転向 「階級制、パンチだけなら絶対いける」と明大卒に帝拳ジム入りし、10年にデビュー。15年に日本スーパーフェザー級王座を獲得し、5度防衛。

 ◆黒星 11年に全日本新人王も、12年の9戦目でアゴを粉砕骨折して初黒星。「それまでは拳法だけで勝っていた。ガードの大切さを痛感した」と転機に。

 ◆痛み アゴの手術翌日に退院し、ボルトが20本以上入る状態でしゃぶしゃぶを食べに。「めちゃくちゃ痛かったけど、肉が食べたくて。自分の伝説です」。拳も「病院に行かなかっただけで、きっと何回も折れている。痛みには強い」。

 ◆神話 母明美さんが試合前に新品の下着を送ると無敗。今回は6枚持参。

 ◆家族 梓夫人と3男。長男豹くん(4)の名前は大好きなヒョウ柄から。

 ◆タイプ 身長173センチの右ボクサーファイター。