1972年1月13日、アントニオ猪木さんは、新日本プロレスの設立を発表した。創業精神に掲げたのが「プロレスリングの市民権確立」。そのために理想としたのがレスリング技術の攻防を軸にした格闘技色の強いプロレス、いわゆる「ストロングスタイル」だった。

それまでの日本のプロレスはショー的要素が強く、色眼鏡で見る人も少なくなかった。力道山時代は外国人レスラーの力技や反則に耐えて、最後は必殺技で倒すという勧善懲悪の決着が日本人に支持された。力道山の死後も日本人対決はタブーとされ、試合はチョップやキックなど殴る蹴る倒す技が中心で、レスリング技術の攻防は少なかった。

この流れを猪木さんは「ストロングスタイル」で変えようとした。前年まで所属した日本プロレスでは、ジャイアント馬場とのタッグ“BI砲”で人気レスラーになったが、格では馬場に次ぐ2番手。馬場は力道山が保持したインターナショナル王座を通算49度防衛。猪木さんは挑戦も許されず、我慢の限界だった。

「だってオレは昔から道場で馬場さんに負けたことがなかった。一番強い者がベルトを持つ。当たり前のことを証明したいだけだった。こんなプロレスでいいのかよと思った」と、猪木さんは後に本紙の取材に語っている。知名度や実績でも、正義や悪でもなく、真に強い者がトップに立つ。それが理想だった。

馬場超えを胸に秘めた猪木さんは60年代に、世界屈指のレスリング技術を誇る「プロレスの神様」と呼ばれたドイツ人のカール・ゴッチに徹底指導を受けた。アマレスの技を応用した関節技に固め技、スープレックスなどを習得。道場では無敵の強さを誇った。そのスタイルをそのまま新日本のリングで実践した。

72年3月6日、東京・大田区体育館での旗揚げ戦で、48歳のゴッチと対戦。目まぐるしいレスリングの攻防の末に原爆固めで敗れたが、猪木さんは「敗れたのに満足感があった。日本プロレスができなかったものができたという自信が生まれた。あの試合でプロレスに新しい火がともった」と後に振り返っている。

同じ72年、日本プロレスを退団した馬場も全日本プロレスを旗揚げした。米国人脈で有名外国人レスラーを集めて「明るく楽しく激しいプロレス」を旗印に、ストイックに強さを追求する新日本に対抗した。猪木さんは「全日本は全然路線が違っていた。ファンは楽しいかもしれないが、オレは“ふざけるな”という気持ちだった」という。

猪木さんは74年3月に国際プロレスのエース、ストロング小林との日本人対決に勝利を収め、75年12月には欧州屈指のテクニシャン、ビル・ロビンソンと60分ドローの歴史的名勝負を演じた。『ストロングスタイル』の神髄に観客は酔いしれた。その後、猪木さんは異種格闘技戦へと闘いの舞台を広げ、時代の寵児(ちょうじ)となる。

引退後の06年8月、猪木さんはこう回想した。

「オレと馬場さんは合わせ鏡だった。彼がいたから『ばか野郎』と頑張るエネルギーになった。彼がいなかったら、オレのキャラクターはもっと違っていたかもしれない。今になって思えば、馬場さんに感謝しないとな」【首藤正徳】