新日本プロレスで初代タイガーマスクのライバルとして活躍し「虎ハンター」の異名を取った元プロレスラー小林邦昭さんが死去していたことが10日、分かった。9日に亡くなり、68歳だった。覆面をはぎにかかるヒール役に徹し、ファンをドキドキさせ、興奮させた。現役時代の92年に大腸がんが発覚。99年に肝臓への転移が分かり、切除手術を行った。引退後は新日本プロレス道場の管理人として後進の育成にもあたっていた。
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小林さんと初代タイガーマスク佐山サトル(現ストロングスタイルプロレス総監)の“ラストバトル”が、実は先月末に行われていた。
小林さんは1972年に新日本プロレスへ入門。翌73年に栗栖正伸を相手にデビューを果たした。メキシコ武者修行を経て、82年に帰国。以降、当時絶大な人気を博していた初代タイガーとのライバル抗争がスタート。初対戦は同年10月26日の大阪府立体育会館。WWFジュニアヘビー級選手権試合での反則負けだった。試合を重ねるごとにタイガーのマスクを剥ぐ無法殺法が“虎ハンター”として、大きな注目を浴びた。
リング上では国民のヒーローと悪役の関係だった。だが、マスクを脱げば仲の良い親友だ。この日、佐山は発表した追悼コメント(原文まま)で「体調が悪いのは、二週間前の電話の声で、わかっていました」と明かした。何度も闘い、何度も語り合った仲だからこそ感じることができた異変だった。
「その時、『俺達、良い試合をしたなあ』と言うので、タイガーマスクでの試合の事かなと思い、私はその気で思い出を話すと、何と、小林さんは若手時代の事を淡々と意味深げに話すのです」。不思議な会話のずれ。約5分で小林さんの疲れたトーンも感じた。「『元気になってメシ行こう!』『それじゃ元気で!』『元気で!』と言い合って電話を切りました」。今月7日、また声が聞きたくなって佐山から電話。呼び出すもつながらず…。電話の返信はなかった。「心配をしていたところへ、四代目(タイガーマスク)からの電話です」。訃報の連絡だった。
「私は体が沈み込むのが分かりました」
「青春を共有した戦友」
「最高のライバル」
「思い出は沢山沢山あります」
「小林さん有り難う御座いました」
「初代タイガーマスク 佐山サトル」
2週間前に語り合えなかった2人の思い出を振り返りながら「小林邦昭対タイガーマスク」の約42年間の闘いが終わった。ようやく親友だけの関係に。素顔同士で-。
小林邦昭アラカルト
◆生まれ 1956年(昭31)1月11日、長野・小諸市生まれ。
◆新日入り 長野・丸子実を中退して72年に新日本プロレスへ入門。73年に栗栖正伸戦でデビュー。
◆全日でも 84年には“維新軍団”長州力、マサ斎藤、キラー・カーン、アニマル浜口らと新日本プロレスを離脱。ジャパンプロレス所属となり、全日本プロレスへ参戦。全日では2代目タイガーマスク(三沢光晴)ともライバル抗争を繰り広げた。全日では第2代世界ジュニアヘビー級王者となった。
◆新日にカムバック 87年から新日に戻り、同年8月にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。89年4月の東京ドーム大会では獣神ライガーのデビュー戦の対戦相手を務めた。00年、自身の引退試合の相手もライガーだった。
◆抗争 91年12月に勃発した新日本プロレスと誠心会館の抗争では、斎藤彰俊、青柳誠司との異種格闘技戦などで闘いの最前線に立った。抗争の終結をめぐって新日本プロレス選手会と対立。越中詩郎らと反選手会同盟を結成。のちの平成維震軍の一員としても活躍した。
◆得意技 フィッシャーマンズ・スープレックスの他、前蹴り、ソバット、トラース・キックなど蹴り技が多かった。
◆裏方としても 引退後は主に裏方を担い、新日本プロレスでIWGP実行委員、スカウト部長、新日本道場の管理人として勤務した。
◆限定復帰 07年にはリアルジャパンプロレス後楽園大会で、初代タイガー佐山を相手に1試合限定の復帰戦を行った。これは「佐山選手の中の野生の虎を復活させるため」だった。その後は11年にも再戦している。

