大関照ノ富士の横綱昇進が事実上、決まった。26場所ぶりに誕生する横綱は、いかなる復活劇を遂げたのか。連載「第73代横綱誕生~不屈の照ノ富士~」で答えに迫る。

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再入幕した昨年7月ごろだった。照ノ富士は前回の大関時代に取り組んでいた「横綱になるためのトレーニング」を、再び始めた。通称「砂のやつ」。袋いっぱいに約100キロの砂を詰め込み、それを持って3、4段重ねたビールケースに上げ下げする。若い衆だと3回ほどでも苦しい。照ノ富士は全体のトレーニング終わりに20回ほど欠かさずに行い、体をいじめてきた。

もともと稽古場以外のトレーニングに対する好奇心は旺盛だ。ベンチプレスは200キロ、スクワットは300キロを優に超える。伊勢ケ浜部屋では、トレーナーを務める篠原毅郁氏の指導の下、ヨガやプールでの導入。照ノ富士も積極的に利用した。

稽古場以外でのトレーニングに、重きを置く理由がある。照ノ富士はかつて「昔ほどは(番数を)取れない。年齢も変わって、やり方も変わってくるから」と明かしている。土俵上では古傷の膝に対する負荷の懸念がぬぐえない分、トレーニングでカバーするしかない。序二段で復帰した19年春場所後は、コロナ禍以前は毎日のようにジムに足を運んでいるという。

元付け人で元幕下富栄の冨田龍太郎さん(29)は「親方に言われてたまたま夜10時くらいにジムに行ったら、ちょうど大関も来ていた。この時間にやってるんやなと思った」。日付をまたぐことも珍しくなかった。冨田さんによると、ジムの後に行く銭湯で体を癒やすのが楽しみだったという。【佐藤礼征】