SNSで「(~さんと今度は)ご飯に行きたいと思います」という私の発信に対し、「『ご飯に行く』なんて日本語じゃない、アナウンサーなのにおかしい」というコメントをいただいたことがあります。「ご飯に行く」は誤用なのか、そもそも日本語における正解とはなんなのか、考えていきます。トーク編第53回「語学として日本語を学ぼう」。

『就活のリアル '21年度版』(自由国民社)発売記念サイン会での五戸美樹(2020年1月、撮影:都筑淳)
『就活のリアル '21年度版』(自由国民社)発売記念サイン会での五戸美樹(2020年1月、撮影:都筑淳)

■時代の規定がない■

2019年4月更新のトーク編第44回で、日本語は「正誤」の価値観があまり当てはまらないと書きました。理由のひとつに、「どの時点(時代)の日本語を正しいとするかの決まりがない」ことが挙げられます。辞書が常に更新され、意味が追加されているのは、辞書が編纂された時の言葉を「正解」とはしていないためです。

■言文の不一致■

また、言文一致言語ではないことも、特筆すべき点です。私たちは小学校の作文で、「書き言葉」を習い、使いこなし、その後無意識に「話し言葉」と「書き言葉」の使い分けをするようになっていきます。例えば、文章で記す時は「間違っている」と書きますが、話している時は「間違ってる」で問題ありません。まれに、「書き言葉」を「正しい」とする見解を見かけますが、「話し言葉」を「誤り」とすると、日常生活を送ることはできなくなってしまいます。

■標準語は存在しない■

そして、方言を間違いとすることはできないことも、日本語が正誤で語れない理由です。明治時代に設けられた「国語調査委員会」では「標準語」の制定を目指し、口語や方言の調査が行われました。

その後、「標準語」は東京の山手方言に基盤を置くこととされましたが、1951年の国立国語研究所の報告書「言語生活の実態」で、「標準語」は「なんらかの方法で国として制定された規範的な言語」と定義され、それは「日本ではまだ存在しない」という立場から「共通語」という語を用いています。

つまり、日本には「標準語」は存在せず、東京の言葉は多くの方がわかる「共通語」です。方言を使うことは全く問題ありません。テレビで芸人さんが関西弁を使っていても違和感はありませんし、その地方ごとの方言が失われてしまうことのほうが恐ろしいことだと私は思います。(アナウンサーの場合は共通語を使うことが社内規定であることが多いです)

■「にほん」と「にっぽん」■

国名「日本」について考えていきましょう。読みは、「にほん」も「にっぽん」もありますね。放送局ごとにどちらを使うか規定を設けていますが、それが一般の方を規制するものではないことは言わずもがなです。国の呼び方に関して「どっちでもいい」というのは、日本語の概念に対して象徴的なことであると思います。

『就活のリアル '21年度版』(自由国民社)発売記念サイン会での五戸美樹(2020年1月、撮影:都筑淳)
『就活のリアル '21年度版』(自由国民社)発売記念サイン会での五戸美樹(2020年1月、撮影:都筑淳)

■ここまでのまとめ■

以上のことから、日本語は「正しい」と「誤り」という価値観があまり当てはまりません。日本語の場合は、「伝わる」か「伝わらない」か、「不快」か「不快でない」かを考えるほうが合理的です。

■「ご飯に行く」は誤りか■

冒頭でご紹介した「ご飯に行く」を考えていきましょう。「行く」は用法の多い動詞です。「今いる所から向こうのほうへ進み動く」のほか「いったん近くに進んで来て、向こうへ離れ去る」、「死ぬ」、「他家へ移る」、「愉快になる」、「ある結果が生じる」、「物事を行う」など(日本国語大辞典)。

つまり「行く」は全て「移動」ではありません。「物事を行う」ことも「行く」と表現する場合は多く、「ご飯を食べることを行う」は「ご飯に行く」になり、「飲み会に参加する」は「飲みに行く」になり、「映画を見に出かける」は「映画に行く」になります。

■「食事に行く」は正しいか■

また、「ご飯に行く」は間違っていて、「食事に行く」は正しいとしている見解も見かけますが、用法としては同じです。

違いとしては、「食事に行く」のほうが、どちらかというと丁寧で、“書き言葉より”です。「ご飯に行く」のほうが、どちらかというとラフな、“話し言葉より”です。

LINEでのやりとりで「明日ご飯行かない?」と送られ、違和感を持つ方はあまりいないと思います。これはSNSの発信が、話し言葉を文字化していることが多いためです(「新言文一致体」といわれます)。SNSは、論文やメールよりもずっと、話し言葉に近くなります。つまり、「ご飯に行く」は誤用とは言い切れません。

『就活のリアル '21年度版』(自由国民社)発売記念サイン会での五戸美樹(2020年1月、撮影:都筑淳)
『就活のリアル '21年度版』(自由国民社)発売記念サイン会での五戸美樹(2020年1月、撮影:都筑淳)

■「ら抜き言葉」は誤りか■

ら抜き言葉について考えていきましょう。「見られる」ではなく「見れる」、「食べられる」ではなく「食べれる」といった、可能の表現時に「ら」が消える単語。これを間違っていると言う方は、ら抜き言葉が現れた理由として「ら」を発音するのが面倒だからと定義してしまう方が多いのですが、では受動の表現時に「ら」が消えないのはなぜでしょう?

「親にテストを見られた」「私のケーキを姉に食べられた」こういった受動態で「ら」が消えることはありません。「面倒だから」が理由であれば、受動の「ら」も消えるはず。

■ら抜き言葉の成り立ち■

ら抜き言葉発生以前に、可能表現には変化が生じています。助動詞「れる・られる」をつけた単語、例えば「行かれる」「会われる」は変化し、「行ける」「会える」のほうが優勢になりました。理由は諸説ありますが、受動態(+尊敬)と区別するためと考えられています。

つまり、可能表現「動詞+える」が優勢になったことで「見る+える」=「見れる」が発生したといえます。「ら」が抜け落ちたのではなく、「見る」が「える」とくっついたことで、可能表現が「見れる」に変化したと考えるほうが論理的です。

『就活のリアル '21年度版』(自由国民社)発売記念サイン会での五戸美樹(2020年1月、撮影:都筑淳)
『就活のリアル '21年度版』(自由国民社)発売記念サイン会での五戸美樹(2020年1月、撮影:都筑淳)

■日本語学は楽しい■

日本語学を学ばずに、「ら抜き言葉」に目くじらを立てるのは、私には何かもったいないことに感じます。日本語は語学として興味深く、研究が終わることのない難解な言語で、非常に魅力的です。また、難解言語でありながら、日本人は無意識に日本語を使いこなしており、自分が日本人であることを誇らしく思います。

表現の自由は権利ですから、ら抜き言葉を使いたくない方は使う必要はありませんし、使いたい方は使ったらいいと思います。

私が気になるのは“言葉狩り”です。もちろん、人を不快にさせる言葉をあえて使うことはありませんし、文章における誤字脱字はないほうがいいです。そして新聞や放送などは各社の規程に従うべきだと思います。ただ、間違っているとは言い切れないのに、誤用と決めつけて、攻撃し、言葉を奪うのは、あまり得をしないように感じます。

違和感を持つ用例があったら、どのようにしてその言葉が生まれたのかを考え、調べると、日本語学の研究になり、とても楽しいと思います。

【五戸美樹】(ニッカンスポーツ・コム芸能コラム「第77回・元ニッポン放送アナウンサー五戸美樹のごのへのごろく」)

参考図書:『日本国語大辞典』(小学館)