ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」などで活躍した赤木春恵さんが亡くなった。94歳だった。

赤木さんは40年に松竹に入社し、女優生活は78年に及ぶ大ベテランだった。しかし、一般的に名前が知られるようになったのは、48歳の時に出演した連続テレビ小説「藍より青く」からだった。それまでの赤木さんは女優として苦労の連続だった。

それはデビューした翌年に起こった太平洋戦争が女優としての歩みに影を落とした。赤木さんは疎開を兼ねて故郷でもあった満州を訪れ、戦地慰問をしていた時、ハルビンで終戦を迎えた。身の回りの物を売って、食いつないだ。ソ連兵が進駐し、市場で買い物をしている最中に、銃声が聞こえることもあったという。

夜になると、兵士たちが、若い日本女性を探してアパートを回ってきたという。その時、赤木さんは21歳。ドアを開けないと小銃で脅されるため、一計を案じた。夕方になると、「おばあさん」に変装した、1番汚い衣装を着て、顔はドーランを塗って影をつけ、頭に粉おしろいなどをつけて、白髪に見えるようにした。兵士が来ても、赤木さんを見ると、「ニェ・ハラショー(良くない)」と立ち去ったという。

現地の収容所で、一緒に収容されていた藤山寛美さんと「婦系図」を演じたり、ダンスホールで働いたりした。発疹チフスで、生死の境をさまよったこともあった。結局、帰国したのは終戦から1年2カ月後の46年10月だった。

帰国後、東映で女優業を再開するも、大きな役に恵まれなかった。東映プロデューサーと結婚し、京都に新居を買って、一時家庭に入ったこともあった。そんな時、森繁久弥さんから声がかかった。森繁さん主宰の「森繁劇団」で出演を予定した女優が降板したため、白羽の矢が立った。京都から大阪に通って、舞台に立ち続けた。森繁さんはアドリブでせりふを言うことがしばしばで、必死にアドリブに食らい付いた。女優として鍛えられた。特に「佐渡島他吉の生涯」のおとら役は、赤木さんがもっとも愛着を抱いた役で、自宅の居間にその舞台写真は飾られ、葬儀でも祭壇に置かれていた。「佐渡島」は戦争に翻弄(ほんろう)された男の悲しい物語でもあった。

赤木さんは大正、昭和、平成を生き、戦争を体験し、その悲惨さを知る数少ない女優だった。生前、色紙に「愛ありて今日を生きる」と書いた。愛を持って人と接すれば、それは必ず返ってくるとの思いを込めていた。その言葉の真逆にあるものは、愛がない「戦争」だろう。赤木さんは「戦争は人と人との殺し合いです。戦争はもう嫌ですよ」と言っていた。非戦を実感を持って語る人が、また1人いなくなった。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)