まもなく卒業シーズンを迎えます。名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」第31回は尾崎豊さんの代表曲「卒業」です。1985年(昭60)に発表され、情熱的な歌唱や思春期の葛藤やいら立ちを代弁した歌詞が若者の心をつかみ、今も愛され続けている名曲です。「卒業」をめぐる意外なエピソードや素顔を知る関係者が明かします。

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1984年(昭59)3月15日、東京・青山学院高の卒業式が行われた。巣立っていく生徒たちの晴れがましい列の中に、中退した尾崎豊さんの姿はなかった。

その時、尾崎さんは東京・新宿ルイードで開くデビューライブのリハーサルを続けていた。前年の12月、アルバム「十七歳の地図」でデビューしていた。リハーサルでは、全身から発せられる緊張と不安と期待が、照らされるスポットライトに、スタッフの紫煙も揺れる張り詰めた空気に混濁していた。

この頃、まだ「卒業」は出来上がっていない。しかし「歌手尾崎豊」の原点はこの日にあった。当時から尾崎さんと一心同体とも言える存在だった元CBSソニーのプロデューサーだった須藤晃さんは言う。「尾崎さんは卒業したかったんだと思う。高校を中退したことで、親や友人、周辺の人々を傷つけたと彼は思っていた。卒業できなかったことへの悔いと自己弁護。しかし、自分の意思で学校を離れたことをメッセージにしたかった。それが『卒業』だったと思う」。

家庭、学校、大人社会。あらゆるものからの束縛に抵抗した尾崎さんの生きざま。そして「卒業」という曲の誕生。尾崎さんに向けられた若者の共感はやがて絶対的な支持に変わり、カリスマ的存在になった。

その尾崎さんが「卒業したかった」と聞くと少し戸惑いを覚える。須藤さんは続ける。「尾崎さんは不良ではない。実は精神的には優等生で、教師的なタイプなんです。それでいて、学校もやめて、『卒業』という歌もつくる。彼は束縛されることから逃れるために中退したのではなく、とどまっても良かったが、卒業してしまえば、自分の中で何も解決しない、と感じて中退した。すごく最終的な決断をするタイプなんです」。

「卒業」がヒットした翌年、いくつかの高校から、須藤さんに「歌詞を国語のテスト問題に使いたい」と依頼があった。これに対して須藤さんは著作権の問題もないし、断る理由もないとして快諾した。テストでは「『仕組まれた自由』の意味を説明しなさい」という設問がつくられた。須藤さんはテストに使った学校の「文学的な価値として大変優れているから」という理由を尾崎さんに伝えると「えっ、そうですか」と本当にうれしそうな顔をしていたという。

尾崎さんは「卒業」発表の7年後、92年4月25日、都内の路上で肺水腫(しゅ)で倒れ、26歳の若さで帰らぬ人となった。抵抗する10代の代弁者のままで逝(い)った。

尾崎さんには妻も子供もいて、所属事務所の社長でもあった。自分のCDをプロデュースしてくれる須藤さんは東大出身。そのCDが売れ、尾崎さんはある意味で資本家になった。10代の頃の抵抗した世界に、自分自身がいた。尾崎さんは「卒業」の本当の意味である「完全な自由」は、もう得られないと感じていたのかも知れない。

その劇的な生きざまは、若者に強く支持され続けている。亡くなってから2年後、名曲「OH MY LITTLE GIRL」がミリオンヒットし、96年発売のベストアルバム「愛すべきものすべてに」も売り上げが100万枚を突破した。

96年11月には、卒業式当日の新宿ルイードでのライブが初めてビデオ化されて発売された。18歳の尾崎さんがステージで絶叫する姿と、卒業式を終えて応援に駆けつけた同級生の姿も映っている。「尾崎、頑張れよ」の声援に感激する尾崎さんの純粋さは、26歳で人生を卒業するまで変わることはなかった。【特別取材班】


※この記事は96年12月3日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。


▼「卒業」発売の1985年 日航機が御巣鷹山に墜落、坂本九さんを含む520人が死亡。豊田商事会長刺殺事件。ロス疑惑で三浦和義容疑者逮捕。道路交通法改正でシートベルト着用義務づけ。ハレー彗星(すいせい)大接近。「おニャン子クラブ」が人気に。阪神タイガース21年ぶり優勝。「金妻」「新人類」「ヤラセ」などが流行語に。