俳優三宅裕司(71)が率いる劇団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)。第60回記念本公演「ミュージカル・アクション・コメディー 堕天使たちの鎮魂歌~夢色ハーモニーは永遠に~」が、来月21日から東京・池袋のサンシャイン劇場で上演される。79年の結成から43年、その思いを聞いてみた。【小谷野俊哉】

★森繁さん渥美さん好き

43年間積み重ねた公演が60回目を迎える。

「SETはミュージカル、アクション、コメディーという形。歌とダンスとけんかのシーンのアクションと、あとは笑いをふんだんに入れて、最後に感動できるようなものをやってるんです。今回はちょっと歌に特化してみようというストーリー、歌手の話です。3人の女性歌手が落ちぶれていく話です。僕は事務所の社長、小倉(久寛)が天才的なプロデューサー。絶対うまくいくだろうとデビューして、そこから人間関係がうまくいかなくなってっていう話ですね」

今は、年に1回の本公演が基本。43年かけて60回を数えた。

「最初の頃は年に4本、新作をやったりしていました。79年結成で、旗揚げが80年です。前の本公演が終わって落ち着いたあたりから、もう来年どうしようかなと」

★明大時代落研とバンド

明大を卒業して、そのまま演劇の道へ進んだ。

「大学時代は落研(落語研究会)とコミックバンドとジャズコンボバンドをやっていました。音楽と笑いっていうのをやりたかったんですね。子供の頃はクレージーキャッツに憧れました。落語家は、座ってやるのがちょっと嫌だったんですね。もっと動きたくて、あとは先輩が多すぎるっていうね(笑い)。森繁(久弥)さん、渥美清さんとか、てんぷくトリオが好きだったんです。最初に大江戸新喜劇っていうところに入ったんですけど、自分がやりたいのはちょっと違う。ダンスとかアクションの入ったものだなということで、やめてSETを28歳の時に作ったんです」

40年以上、SETを座長として率いてきた。

「軽演劇の劇団を作ったわけじゃなく、ミュージカル、アクション、コメディーがある舞台を作ろうと思ったんです。社会派のテーマがきちっとあって、より多くの人が楽しんで見られるように、歌とダンスと、そしてアクションとギャグをいっぱい入れて。毎年春にやっている今の『熱海五郎一座』は、軽演劇がなくなっちゃうとまずいっていうんで、伊東四朗さんを中心に04年に『伊東四朗一座』として集めた。だからSETが43年、熱海五郎一座が18年ですね」

★80年代後半超多忙

84年4月に始まったニッポン放送「三宅裕司のヤングパラダイス」のパーソナリティーで、若者人気に火がついた。TBS「テレビ探偵団」、「いかすバンド天国」のMCを務めた。

「忙しくなって、台本のこと、演出のことが全く考えられない状況になった。あの一番忙しい時期が、本当に苦しかった。稽古場へ演出家として行っても、何もできない。予習してないわけですから、最悪の状態でした。80年代中盤から後半は月~木曜で夜はラジオ、テレビのレギュラーが5本。やめたいというより、やめた方がいいんじゃないか。いや、やめるのはすぐできるから、頑張ろうっていう感じ。しかも、すごい出番の多い役で舞台に出てますから、よくやってたなと思って。演助(演出助手)に優秀な人間がいてくれて、演助が一生懸命やってくれている中にポンと行って、その言う通りやってたみたいな時期もありましたねえ」

★生まれた環境が

生まれ育った環境が、芸能へと向かわせた。

「東京の神田神保町で生まれて育って、おふくろが日本舞踊を教えていて、長唄、小唄、三味線習わされて、もちろん日本舞踊も。おふくろが9人兄弟の大家族。叔父が芸者さんの置き屋をやっていて、いつも芸者さんがいて踊りとか三味線の音が聞こえました。叔母がSKD(松竹歌劇団)にいて、叔父がラテン音楽好きで、おやじがタンゴとストリングスの音楽が好き。いとこにクガーズっていうグループサンズをやってるのがいた。周りにあらゆる芸能関係があったんですよ。中学からバンドをやって、高校時代は落語とバンド、大学でコミックバンドとジャズコンボバンドと落語研究会ですから。もう全部笑いをとるものなんですよね。だから、漠然と人前で音楽を使って笑いを作りたいっていうものがあったのかなと」

★自分乗せるしか

80年代は休みがない生活が続いた。

「大変というか、調子に乗るしかないっていう感じですよね。もう自分を乗せるしかない。そうしなきゃやってらんないと、睡眠時間が少ないことを自慢してましたから。同じ『アミューズ』に所属するサザンオールスターズが三宅裕司を売るためにすごく協力してくれたんです。84年に日テレの月1の深夜の『サザンの勝手にナイトあっ! う○こついてる』っていう番組で、桑田佳祐や原坊(原由子)なんかも、僕と一緒にコントやってくれたりした。それでガンッて三宅裕司っていう名前が出たんですね」

お芝居とともに音楽が大きな軸になっている。ギター、ドラム、キーボードと多彩な楽器を弾きこなす。

「ずっと音楽やってましたので、音楽の気持ちよさがすごい好きだったんです。だから芝居やってても、音楽が流れるとセリフではかなわない。一瞬にして音楽で劇場中を1つの世界にしてしまう。音楽って、すごいなっていうのはずっと思ってました」

★80歳までは…?

演出家として芝居を作り、演者として演じる。

「やり方としては大道具、衣装、照明、音楽、ダンスの振り付け。これを全部発注して、それが全部出来上がりますよね。それから大道具の図面が来て、稽古場で大体、バミって(位置決め)。稽古開始の前日に全部役者の動きを考えて、自分の役は代役でざっと動きを決めて。大体決まっていいなと思ったら、代役と替わるわけです。そこから役者の方に専念するんですけども、なかなか専念できない。全体を見ながら芝居をやる癖ができちゃって、本番の舞台でも集中できない時もある。それが一番よくないことで、舞台全体を見る時は、VTRでチェックしなきゃいけないんですけど、舞台上でチェックしちゃう時がある。だから、そこが難しい」

★子供版も旗揚げ

走り続けて43年。その先を思う。

「一応、80歳までって、区切りがいいから言ってたんですけど。伊東四朗さんに『60代はまだ青春だけど、70代からいろいろ来るよ、体に』と。70歳過ぎたら、なるほどと。筋肉痛がなかなか治らなかったり、疲れが取れるのが遅いなとか。だから、80歳までとは言ってましたが、ちょっと分からない。できるとこまでですね」

18年に「劇団こどもSET」を旗揚げした。

「40年以上ミュージカル、アクション、コメディーを作ってきた。このノウハウを若い人にね。身につけるのに時間がかかるんですよね。小学生から中学生に教えて、その子たちが次の世代のエンターテインメントをやってくれればいいかなと。自分が恵まれてたから、そういう環境をつくってあげたいなと」

43年の歴史は、未来に続いている。

▼「堕天使たちの-」のプロデューサーの白石千江男アタリ・パフォーマンス社長(62)

元マネジャーで40年近い付き合いになります。三宅さんが、一番苦労したのは、劇団の座長として好きな芝居の世界を構築したのに、テレビ、ラジオで違う才能も花開いた時です。仕事をどんどん入れてしまったのは、私です(笑い)。2人で「あの時は大変だったね」と振り返っています。今、舞台の制作という立場になって、三宅さんが演出家として、スタッフのさまざまな問い合わせも即断して的確な指示を出し、方向性を示してくれることに、改めて才能を感じています。持って生まれた判断力とリーダーシップ、それが全て喜劇に向かっている方なんだなと思います。

◆三宅裕司(みやけ・ゆうじ)

1951年(昭26)5月3日、東京都生まれ。79年に劇団スーパー・エキセントリック・シアターを結成。84~90年ニッポン放送「三宅裕司のヤングパラダイス」。89、90年TBS系「三宅裕司のいかすバンド天国」。95~02年日本テレビ系「THE夜もヒッパレ」。03年映画「壬生義士伝」で日本アカデミー賞優秀助演男優賞。04年から「伊東四朗一座」「熱海五郎一座」を上演。07年ビッグバンド「三宅裕司&Light Joke Jazz Orchestra」結成。趣味はドラム、落語、ギター、三味線。178センチ、73キロ。血液型B。

◆「堕天使たちの鎮魂歌」

10月21日~11月6日、東京・池袋「サンシャイン劇場」。脚本は吉井三奈子。女性3人組ソウルシンガー「ディーバ」は実力がありながら、長年鳴かず飛ばず。そんなある日、アイドルグループの替え玉の依頼が舞い込む。