NHK連続テレビ小説「ブギウギ」(月~土曜午前8時)を手がける脚本家の足立紳氏(51)は、一貫して弱い人間を描いてきた。16年2月に小説「乳房に蚊」(19年に『喜劇 愛妻物語』に改題)で作家、同年12月公開の「14の夜」で映画監督として、それぞれデビューしマルチな創作活動を続けてきた。その裏には仕事がなく、10年ほど前までアルバイトを続けた日々があった。叱咤(しった)激励し、朝ドラ脚本家まで押し上げた妻晃子さん(47)と人生を振り返った。【村上幸将】
★「自分は対極」
朝ドラのスタート時にお決まりの宣伝文句「日本の朝に元気、勇気、笑顔」を毎日、お茶の間に届ける鈴子 を心待ちにする人は少なくないだろう。その“生みの親”ながら、足立氏は朝ドラとは縁がなかった。
足立氏 自分は対極にあると思ってきたので、朝ドラをちゃんと見ていなかった。朝ドラの主人公は自分1人で生きていける、頑張る能力のある人がずっと描かれてきたという先入観があった。だとしたら、頑張れない人ばかりを描いてきた僕の出番はないな、と。
脚本家・足立紳の名を一躍、世に知らしめた14年の映画「百円の恋」(武正晴監督)では、ひきこもりの女性がボクシングに打ち込む姿を描いた。15年「お盆の弟」では、主人公の売れない映画監督と兄に、自らと大崎章監督を投影した。「喜劇 愛妻物語」と19年の小説「それでも俺は、妻としたい」では自身と晃子さんの関係を元に、働きに出る妻にセックスを拒絶され悶々(もんもん)とする脚本家を描いた。私小説的な作品を中心に弱い人間を描いてきた。
足立氏 ドラマや映画は偉人、立派な人を描く側面がある。頑張る人、努力できる人は応援しやすいと思う。でも、僕が書くのは他人に、しなだれかかる人。そういう人も書かなければいけないんじゃないかという意識は昔から常にある。僕は自分に思い切り甘いので他人にも甘いんですが、みんなそうだったら優しい世の中になるように思う。
★相米監督師事
テレビで映画を見て好きになり、小学校の卒業文集に将来の夢は映画監督と書いた。高校の学園祭で演劇の脚本を書き、北野武監督の89年の初監督作「その男凶暴につき」を見て衝撃を受けた。そして、映画を学ぶことが出来る学校として母が見つけた、日本映画学校(現日本映画大)に進んだ。95年に卒業後、紹介されて82年の映画「セーラー服と機関銃」で知られる相米慎二監督に1年、助監督見習いとして師事した。
足立氏 相米さんにつくとは夢にも思わなかった。すごさが分かっていなくて「相米さんの映画が実は苦手」と正直に話したら「俺の映画なんか、好きじゃないヤツの方が良いんだよ」と言われてホッとして。「月、いくらあれば暮らせるんだ?」って聞かれて「10万くらいあれば」と答えたら「とりあえず、くっついてみるか」と。「お前も脚本を書け」と、よく言われて脚本を幾つか見せて…。
★「恐怖」の一言
相米監督の見習いを終え助監督として活動していた24歳の足立氏は、当時20歳の大学生だった晃子さんと出会い、晃子さんの告白から交際が始まった。01年に同氏は「MASK DE 41」(村本天志監督)で脚本家デビューし、03年に結婚したが、その後の10年は不遇の時を過ごした。執筆こそ続けたが、16年8月に「14の夜」がクランクインするまでスーパーの品出しなどアルバイトを続けた。
足立氏 仕事はしていなかったですけど、夜8時半になると、何も書くことはなくても喫茶店に行くことだけは、無理やりやっていた。いつも書いたものを彼女は面白がってくれて…。
「百円の恋」で、主人公の100円ショップの同僚がレジで新聞を読み店長に叱られるシーンは、実体験を落とし込んだ。家計を支えたのは、映画配給会社から新日本プロレスに転職し長女の出産後は自宅近くのコールセンターで働き続けた晃子さんだった。
晃子さん その間、私はずっと暗くて。(足立氏は)週1回の100円ショップのバイトも新聞を読んで怒られ、続かなくて…。
足立氏 100円ショップは、娘が生まれて半年後に始めた久しぶりのバイトで。お客さんもいないし、レジで新聞読んでいいよねって感覚に(笑い)。
そんな中、結婚10年で晃子さんが突きつけた強烈なひと言が足立氏を変えた。
足立氏 「主夫と結婚したつもりはない。1年以内に結果を出せ!」と言われて…本当に恐怖だった。
12年に「百円の恋」が山口・周南「絆」映画祭で設立された脚本賞「第一回松田優作賞」を受賞も、映像化は約束されていなかった。ただ、晃子さんのひと言から足立氏は各所に働きかけ、14年夏に撮影にこぎ着け、同12月に公開された。
★妻の本音は…
「百円の恋」は翌15年の日本アカデミー賞で最優秀脚本賞、同年のNHKドラマ「佐知とマユ」が市川森一脚本賞、19年には「喜劇 愛妻物語」が東京国際映画祭で最優秀脚本賞を受賞した。全てが不遇の10年で書きためたものだった。
足立氏 何の当てもなく夜のファミレスで書いていたものが、ほぼ全て形になった。ストックを作っておいて本当に良かった。10年間は無駄じゃなかった。
そして21年10月、NHKの福岡利武氏から朝ドラの打診を受けた。「朝ドラ、向いていないし」と逃げ腰になりかけた足立氏の尻を「絶対に受けろ!」とたたいたのも晃子さんだ。
晃子さん 受けた時はつらいけど、やれば、企画は通りやすくなる。チャンスにおじけグセが出た足立を目の当たりにしてガッカリしたところもあって。
昨年4月、晃子さんが足立氏の個人事務所を設立して社長に就任。同9月には、若き同氏の葛藤の日々をベースに描いた新作小説「春よ来い、マジで来い」(キネマ旬報)を出版した。11日には「雑魚どもよ、大志を抱け!」で、映画監督初タイトルとなる、高崎映画祭最優秀監督賞を受賞したことが発表された。今後のビジョンを語る同氏の言葉にも、力がこもる。
足立氏 自分がものすごく一生懸命になれるものをやりたい。西村賢太さんの小説の映画化が夢ですが…ああいう人間の本質を描いた企画が通りにくい。朝ドラの反応を見ても、人間の負の要素が、ちょっとでも前面に出る話が受け入れられない印象があります。人間の本当のところを描くと、嫌われるのはどういうこと? 見たくないのか…みんな自分にウソをついているんじゃないかと思ったりもします。
熱く語る足立氏をよそに、何度も離婚を考えたという晃子さんに、支え続けた真意をコッソリ聞いた。
晃子さん 書いたものを、まず読ませてくれるのですが、いつもまぁまぁ面白かった。どんなに激しくケンカしたりガッカリしても、胸が苦しくなったりする物語を作ってくるから…。「朝ドラ」をやれたのはウソのようですけど、これからが勝負…だから健康に気を付けて欲しいんです。
足立紳の才能を誰よりも信じ、諦めなかった妻がいなかったら「ブギウギ」は生まれなかっただろう。雌伏の時を乗り越えた夫婦が、日本を明るく照らす物語を手を携えて紡いでいく。
◆足立紳(あだち・しん)
1972年(昭47)6月10日、鳥取県倉吉市生まれ。由良育英高(現鳥取中央育英高)を経て、日本映画学校(現日本映画大学)演出コース進学。最終学年の卒業製作「荒野のホットケーキ」で脚本・監督。95年に卒業後、相米慎二監督に師事。助監督、演劇活動を経て脚本を書き始める。脚本を手がけた主な映画は「キャッチボール屋」(05年)「嘘八百」「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」(18年)「劇場版 アンダードッグ前編 後編」(20年)など多数。主なドラマはNHK「六畳間のピアノマン」(21年)「拾われた男 Lost Man Found」(22年)など。
◆「春よ来い、マジで来い」
脚本家志望の大山孝志は、助監督の多田さん、ピン芸人の菅井、小説家志望の蒔田と共同生活をしていた。恋人ユキさんから別れを切り出されれば泣いてすがり、29歳ながら実家の母に仕送りを無心する大山は、有名な映画と漫画を盗作しコンクールに応募した。