長渕剛(58)が、8月22日夜から静岡県富士宮市の富士山麓で開催する「10万人オールナイト・ライヴ2015 in 富士山麓」。この一大イベントに向け、さまざまな角度、証言から連載する。

 ここで、11年前の桜島オールナイトライブを終えた8月22日までさかのぼる。2012年ロンドンパラリンピック・パワーリフティング日本代表の三浦浩(50)はスタッフとして、桜島にいた。9時間に及ぶライブを終えた撤収作業中、近くの海に長渕剛が浮かんでいた。疲れ果てるどころか、故郷の海を一泳ぎしていた。

 三浦 私も疲れより、やりきった爽快感の方が強かった。眠くなるどころか、その翌朝まで寝られなくて、鹿児島市内の朝市に出掛けましたから(笑い)。

 三浦が長渕に出会ったのは中学時代、東京・渋谷のデビューアルバム記念ライブでファンになった。長渕のライブスタッフになりたくて、20歳で脱サラした。何組かのアーティストのスタッフを経て、25歳から長渕の元で働いた。

 念願かない、信用も得ていた37歳の時、アクシデントが発生した。他のアーティストの愛媛公演搬出作業中、400キロのフォークリフトが倒れてきて、脊髄を損傷。その夜のうちに、もう下半身が動かないことを告げられた。妻と子どもが2人いる。入院生活が1カ月になり、歩けなくてもできるスタッフの仕事はないかと考えていると、電話が入った。「東京に戻ってこないか。病院は手配するから」。長渕の声だった。

 転院後、横浜スタジアムのライブが決まった。もう、じっとしていられない。事故から3カ月半、入院先から車いすでリハーサルに参加し、本番も支えた。

 それから2年後、桜島オールナイトライブはステージ周りの責任者を務めた。約2カ月のリハーサルで、100台に及ぶギターなど楽器を管理し、次々に変わる楽曲のアレンジや構成を記録。バンドの練習では長渕の代役で歌った。睡眠もままならず、帰宅して気付くと、もうスタジオにいるような感覚だった。

 三浦 本番が終わるまでの2カ月は、けがをした時より苦しかった。それを乗り越えたから、もう怖い物がなかった。

 そんな時、アテネパラリンピックのパワーリフティングの映像に目が留まると、長渕に「北京パラリンピックを目指します」と告げた。4年後の北京出場は惜しくも逃し、競技に時間を割くため、一般企業に就職した。すると、12年ロンドンで9位。来年のリオデジャネイロ、5年後の東京パラリンピックは金メダル獲得を目指している。すべて、長渕の影響だ。

 三浦 長渕さんは桜島でできたことを100だとして、今度は120のことを100の力でできるように、目指していた。限界を超えた努力をしないと、120に届かない。そのためには、1人だと乗り越えられないことも知りました。

 昨年9月の取材中、長渕がふと、三浦のことを語り出した言葉がある。

 長渕 一緒に熱く燃えて、苦しみながらも夜通し何かを作り上げた人間同士の中に、覚悟や決意があるんですよね。桜島の7万5000人の中にも人生が大きく、ある種動いた人もいらっしゃるでしょう。僕に近い中では、三浦君の人生は非常に大きく豊かに変わったと思います。「足が動かなくなってよかったです」とまで言いましたからね。そういう仲間もいます。

 そんな仲間が、長渕をも突き動かす。(敬称略)【特別取材班】

 ◆三浦浩(みうら・ひろし)1964年(昭39)10月14日、東京・墨田区出身。主な戦績は12年ロンドンパラリンピック48キロ級9位、13、15年全日本障がい者パワーリフティング選手権49キロ級優勝、14年全日本実業団ベンチプレス選手権MVP、15年世界マスターズベンチプレス選手権59キロ級優勝、アジアオープンパワーリフティング選手権49キロ級4位。日本パワーリフティング協会理事。