ザ・ドリフターズのメンバーでタレントの志村けん(本名・志村康徳=しむら・やすのり)さんが29日午後11時10分、新型コロナウイルス肺炎のため亡くなった。所属事務所が30日に発表した。

「東村山音頭」「カラスの勝手でしょ」「アイ~ン」など数々のギャグを生み出し、国民的な人気タレントとして活躍した。葬儀・告別式は近親者で行う。

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志村さんは、小学校の教師だった父憲司さんと母和子さんの三男として東京都東村山市に生まれた。2人の兄は公務員。小学生のころから喜劇好き。中学生のときにコメディアンになろうと思い、高校に入った時にはこの道以外は考えられなかったという。教員の父が厳格だった反動もあったと後に語っている。

都立久留米高校卒業と同時に、ザ・ドリフターズにあこがれていかりや長介さんに弟子入り。最初は担任教師の紹介で由利徹さんに弟子入りするも断られ、いかりやさんの自宅前に座り込み、バンドボーイとして拾われた。

1974年(昭49)3月30日、東京・渋谷公会堂(当時)で行われた、TBS系「8時だヨ! 全員集合」の公開生放送を最後に荒井注さんが抜け、いかりやさんや加藤茶の付き人をしていた志村さんが、正式メンバーに抜てきされた。

翌31日付の日刊スポーツは「印象が薄い新参・志村」と報じている。当時の「全員集合」は高視聴率のおばけ番組で、TBSが民放の雄として存在しているのは、同番組とドラマ「ありがとう」のおかげと解説。荒井さんの降板を機に、ライバル局のプロデューサーによる視聴率は落ちるとの見方を紹介している。志村さんもすぐに番組にとけ込んだわけではなく、毎晩ウイスキーをロックで5~6杯あおらないと寝付けなかったと話していた。

転機は76年に訪れた。「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を披露したところ、バカ受け。東村山庭さきゃ多摩湖 狭山茶どころ 情けにゃ厚い、と歌う同音頭は59年に三橋美智也さん歌唱で発売されたご当地ソングだが、志村さんは、実際にはない「東村山4丁目町内会音頭」などをアレンジ。東村山1丁目 ワァーォ! ワァーォ! なども受け、志村さんの人気はうなぎ上りに。「全員集合」の視聴率も20%から30%に上昇した。

85年9月に「全員集合」終了後、翌86年1月から、「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」がスタートした。このころ、一般女性やお天気お姉さん、モデルらとの熱愛も報じられるが、結婚には至らなかった。東京都内に3億円の豪邸を建設、ついに結婚かと報じられたが、87年8月にはこの豪邸前で志村さん自ら破局していたことを語った。

87年5月に公示された高額納税者番付のタレント部門で3位に。翌88年には、個人事務所との所得を合わせ、萩本欽一を抜いてトップに立った。

87年11月には自身初の単独レギュラーコント番組、フジテレビ系「志村けんのだいじょうぶだぁ」がスタート。「変なおじさん」のキャラクターがヒットし、同時期にシリーズ化された「志村けんのバカ殿様」とともに、人気を不動のものに。変なおじさんこと志村さんが歌う「ウンジャラゲ」もヒットした。

96年には、志村さんの死亡説が流れたこともあった。あまりにもうわさが広まり、志村さんがワイドショーに出演して否定する騒ぎになった。

99年には映画「鉄道員」で高倉健さんと共演し映画デビュー。同年にはビートたけしとテレビ朝日系新番組「神出鬼没! タケシムケン」で共演。お笑い界の重鎮がコンビを組んだことで話題を呼んだ。