上方落語の重鎮、笑福亭仁鶴さん(本名・岡本武士=おかもと・たけし)が17日に骨髄異形成症候群のため、大阪府内の自宅で亡くなっていたことが20日、分かった。84歳。所属の吉本興業が発表した。

20代のころから「爆笑男」と呼ばれ、高座で活躍する一方、テレビ司会者としても人気。CM「ボンカレー」も話題を呼び、「どんなかな~」とのギャグも生み出した。80歳を超えても高座やテレビで活躍していたが、17年6月に隆子夫人(享年72)を亡くしてから、精神的に落ち込む日々も多かった。

   ◇   ◇   ◇

上方落語の存在を全国に広めた「至宝」が力尽きた。筆頭弟子の笑福亭仁智(69)によると、亡くなる2日前にも会話ができていたといい「2時間、いろいろなお話をしたばかりなので、びっくりしました」とショックを隠せなかった。

最後の仕事は、18年10月の京都国際映画祭でのあいさつになったが、亡くなる前日まで体調に変化はなし。上方落語関係者によると、仕事への意欲も見せていたともいい、急変だった。最期は義姉らにみとられて旅立った。葬儀はすでに一門や親族の近親者、関係者らで終えたという。

仁鶴さんは17年5月に体調を崩し、大阪・なんばグランド花月など舞台やレギュラー番組の休演が続いた。段階的に復帰を試みるも、同6月初めに最愛の夫人を亡くした心労から、再び同7月半ばごろから休みがちに。それでも18年9月、大阪・天満天神繁昌亭で、故6代目笑福亭松鶴さん「百年祭」に出演し、立位でトークを展開した。

戦後20人にも満たなかった上方落語を復興させた上方四天王の、そのすぐ下の世代で、上方落語を全国に広めた旗手が仁鶴さんだった。80代に入っても高座、レギュラー番組に出演。「健康管理は何もせんのが一番です。笑うことですな」と話していたが、夫人を亡くした痛手は大きかった。

一門関係者に「人と一緒におるのがしんどい」などと漏らすこともあった。17年12月、弟子の笑福亭仁勇さんが亡くなった際は、葬儀に出席できなかった。

夫人、弟子を相次いで亡くした翌18年、盆を前に一門が集まった際にも、筆頭弟子の仁智によると、仁鶴さんは「時間が(悲しみを)忘れさせてくれるかと思うたけど、そうはいかんな」と漏らしたという。

仁鶴さんは、高校時代に初代桂春団治の落語を聴き、素人参加番組に出演。62年ごろ、ABCラジオ番組で審査員だった故6代目笑福亭松鶴さんに師事した。当時の仲間に「爆笑王」と呼ばれた、米朝一門に入った故桂枝雀さんがいた。

6代目松鶴一門は松竹芸能所属だったが、仁鶴さんは吉本。一門によると、3代目染丸ら師匠筋が「あいつは多才。吉本向き」と進言したためという。「不動坊」「崇徳院」「くっしゃみ講釈」「池田の猪買い」など多彩な持ちネタをバリトンボイスで操る大阪弁は、言葉に厳しかった米朝さんも一目置いていた。

一方では、「ヤングおー!おー!」など、テレビ司会者としても人気は絶大で、多くのテレビレギュラーを抱え、CM出演もあった。多才ぶり、その器用さを見抜いた師匠連が「吉本向き」と判断したようだ。

その人気ぶりから「視聴率を5%上げる男」の異名がつけられた。吉本興業では、故林正之助氏からも敬われ、05年には、同社の特別顧問に就いていた。【村上久美子】

◆笑福亭仁鶴(しょうふくてい・にかく)本名・岡本武士。1937年(昭12)1月28日、大阪市生まれ。初代春団治のレコードを聞き落語家を志し、61年に6代目笑福亭松鶴さんに師事。吉本興業に所属し、桂三枝(6代文枝)とともに吉本落語家の顔として活躍した。深夜ラジオでは若者から爆発的人気を得て、テレビでは「どんなんかな~」の当たりギャグも。86年から司会を務めたNHK「バラエティー生活笑百科」では「四角い仁鶴がまぁーるくおさめまっせ~」のセリフで人気に。大塚食品「ボンカレー」などCMにも出演し、夫人とのテレビ番組もあった。持ちネタは「崇徳院」「道具屋」「壺算」など多数。

◆骨髄異形成症候群 骨髄の造血幹細胞に異常が起き、赤血球や白血球、血小板などができなくなるがんの一種。中高年に多く、発症のピークは60~70代。病気の進行に従い、息切れやだるさ、疲れやすさといった貧血の症状が出たり、原因不明の発熱が起きたりする。急性骨髄性白血病に進展する場合がある。症状や病状の進行は個人差が大きい。治療は症状に応じ、赤血球輸血、造血幹細胞の移植などがある。放送作家で元東京都知事の青島幸男さん、コメディアンの関敬六さん、アニメ「サザエさん」のカツオ役で知られる声優高橋和枝さんも闘った。