日本初の本格アクション女優として活躍した志穂美悦子(70)の出演作が銀幕でよみがえる。東京・目黒シネマで、7月5日から11日まで志穂美悦子週間として「宇宙からのメッセージ」(78年)と「二代目はクリスチャン」(85年)が上映される。志穂美はこのほど日刊スポーツの取材に応じ「映画が今の私の礎」と当時を振り返った。【鎌田良美】
今でも10日に1度はボクシングジムに通う。「自分をアスリートだと思ってるから。まだできる肉体を持たせてもらえてるってことは、まだ表現しなさいって言われてる。それができなくなるのはバチが当たると思って。80歳でも動きたいし、100でも動きたい。そんな人見たことないから、私はそれになりたい」。写真撮影では、足を頭上まで真っすぐ蹴り上げた。
高2の春、たまたま手に取った「週刊明星」の巻頭で、故千葉真一さんが設立したジャパン・アクション・クラブ(JAC)の1期生が紹介されているのを目にした。「そこからはがきを書いたんです。入りたいですって」。修学旅行から帰ってきた夏の日、オーディションの案内が届いた。国家公務員の父に、芸能界に行きたいなんて言ったことがなかった。「初めて父と対峙(たいじ)して。しゃべりながら涙が出たのを覚えてますよ。どうしてもやってみたいんだと言った夜でした」と本心を打ち明けた。
試験は「それだけ見れば分かる」と言われ、前転と後転をしただけで合格。岡山から上京し、両親とともに訪ねた千葉さん宅のリビングで、千葉さんと野際陽子さんに迎えられた。その時言われた言葉を、はっきり覚えている。「1年間は訓練してもらいます。雑草のように頑張りなさい」。
「ボディガード牙 必殺三角飛び」(73年)でスタントデビュー。本名の塩見悦子としての出演だった。後に「芸名は本名を崩さないほうが大成する」と言った野際さんから、千葉さんの本名の一文字をもらって「志穂美悦子」の名を授かった。
この年、ブルース・リーの死が縁を呼んだ。「千葉さんが『ブルース・リーが亡くなっちゃったんだよ』って誰かに言ってるのを聞いたんですよ。その時、ブルース・リーは無名。私、プレスリーって聞こえて。ブルース・リーって誰? って感じだった。そこから『燃えよドラゴン』が大ヒットした」。来たるブームに合わせ「空手映画を撮るから習ってくれ」と言われて空手を練習した。
映画初主演を果たした「女必殺拳」シリーズも、この流れでできたもの。「『燃えよドラゴン』でブルース・リーの妹役をやったアンジェラ・マオさんを東映に呼んで空手映画をつくるってことで、私は2番手の役だったんですね。と思ってたら何の理由か分かりませんけど、アンジェラ・マオさんは来ないとなって。主役になって、もう棚からぼた餅」。日本の空手映画ブームは短かったが「全部のタイミングがドンピシャ」でスターの階段を駆け上がった。「導きがある」と言った。
JACでは月曜から土曜まで訓練漬けだった。プールで手足を縛って泳ぐ訓練、レスキュー隊ばりにビルとビルの間を綱渡りする訓練、ヘリコプターにぶら下がったりもした。主演級の作品が続いたのも「JACのおかげ。あらゆる訓練を受けてる。そういうところを出てれば、本物って感じするじゃないですか」。
当時、JACを知らない人はいないほどだった。ほぼ同時期に入団した真田広之(65)も人気者に。「少年隊のみんなも私たちの舞台を見に来ましたからね。ジャニーズもああいうことやりたいって言って」。先生と呼ばれるのを嫌がった千葉さんを直接そうは呼ばなかったが「師」とあおぐ。「みんなにとって恩師です。広之が人気になって、譲れるのもすごいなと思いましたよ。千葉さんだって自分が主役でいたいじゃないですか。角川では広之が主役っていう時代に変わって、それを良しとして育て上げたのはすごい」。
87年、長渕剛(69)との結婚、出産を機に全盛期で表舞台から遠ざかった。同業の俳優にはひかれなかった理由を「ビル綱渡りできる? ヘリコプターぶら下がれる? って思っちゃうから」と笑った。実のところ引退会見はしていないし、結婚会見で引退するとも言っていない。
「女優を辞めさせるような人とは結婚しないってずっと言ってたんです。でも他ジャンルの人と一緒になって『1つの家の中に2つの星はいらない』って言う人だったから」。反発する気持ちもなかったわけではない。が、気持ちにも変化があった。
「今思うとね、女優って結局、虚像なんですよ。人の脚本、人の演出で生きていくだけでは満足しなくなった。実人生を豊かにするほうが楽しい。それをやりたいって思ったのが30(歳)なんですよね」。そして続けた。「寅さん(『男はつらいよ』)のマドンナもやらせてもらって、女優としてはある種、最高峰なことをやれて、岡山から東京に出てきた時に願った以上のことをやれた。違う世界に飛び込んでみたいって欲望が強くなったんです」。家庭を持ち、結婚生活を送り、子どもを育てる。それが自分にとっての新しいチャレンジになった。
再び動き出すきっかけをくれたのは子どもだった。次男がレーサーを目指して16歳で英国留学する際に「お母さん。おれはイギリスに行くから、お母さんも好きなことやれば」と言ってくれた。縁あってフラワーアレンジメントを始め、現在は花創作家と、「鬼無里(きなさ)まり」名義でシャンソン歌手としても活動している。
花も歌も、自分の意思を伝えるメッセージだ。「人生いろんなことありましたけど、全ての経験を宝だと思いたいし、苦しいことや悲しいことがあるから楽しいよって、自分の口で言いたいんですよ」。
己の言葉で表現したいと思うのは、夫の影響が大きいとも言った。「長渕剛ってとんでもない人なんです。そばにいたら大変なの。でも彼は自分の思いを詩に託す人だし、良きも悪きも半端ないのね。そういう人の横にいたからもあるのね、やっぱり」。
「人生は挑戦」と明るく言い切る。バク転も最初はできなかった。知らないことをするのが好きで、昨日の自分よりできるのがおもしろい。「それも100人中99人が選ぶようなものには挑戦しないの。日本女性として見たことがないジャンルでずっといたい」。結婚が決まった時、里見浩太朗(89)から「小田和正さんと結婚するなら分かるけど長渕?」と聞かれたという。「あの長渕の妻ってだけで勲章でしょう。あの大変そうな人の。これが私の人生だったんだなって思う」。選んだものが正解で、選択が自分をつくる。
新しくやりたいことが見つかるのは、本気でやりきったからだ。「私は映画に命をかけてきた。映画が大好きだったし、演じることが大好きだった。何かに命をかけるほど一生懸命やったら、別の何かが切り開けるっていうのが私の人生。映画の世界が温かく、いろんなことを教えてくれた」と懐古した。
かつて千葉さんは「雑草のように生きて」と言った。それが生きる指針でもある。「そりゃ、温室栽培のランも美しいですよ。雑草の間からあんな花は咲かないけど、でも強い。花はすべて自分の力で咲きますからね」。野際さんは17年に、千葉さんも21年に他界した。「おふたりがいなくなったからこそ、自分は頑張らなきゃって思いもあるかもしれない。今70(歳)で、50は若かったなって思うんですよ。あのころ若かったなって、100になったらもっと思う。泣くようなことがあっても、あれがあったからこそって思える人生、いいじゃないですか」。まだ、70歳。「年を取るのが楽しみ」と力強く締めた。
○…志穂美は7月5日に、目黒シネマのトークイベントに登壇する。東映の5代目宣伝部長、福永邦昭氏(86)が東映から角川映画の宣伝術と、昭和スタイルのカツドウヤの生態を浮き彫りにした書籍「実録!東映三角マーク宣伝部」(19日発売、立東舎)の出版記念イベント。著者の福永氏、尾形敏朗氏とのトークにゲストとして参加する。



