「函館の女(ひと)」「三百六十五歩のマーチ」「みだれ髪」などで知られる作詞家・星野哲郎(ほしの・てつろう)さん(本名・有近哲郎=ありちか・てつろう)が15日午前11時48分、心不全のため都内の病院で死去した。85歳だった。52年に船乗りから作詞家となり、約4800曲の「遠歌縁歌援歌」を書きつづり「演歌の詩人」と称された。映画「男はつらいよ」シリーズの主題歌でも親しまれた。戦後の日本歌謡界を支え続け、未発表作品がまだ2000もあるという希代の作家が逝った。

 星野さんは、長男で音楽家・真澄さん(52)の夫人と、長女桜子さん(49)夫妻の3人にみとられて息を引き取った。真澄さんは星野さんの代役で山口県周防大島町にある星野哲郎記念館に行っており、急きょ、帰京し応対した。

 星野さんは10月5日に食べ物が肺に入り病院に搬送されていた。肺炎と分かりそのまま入院。以降は安定した状態だったが、この日になって体調が急変した。最近は足腰が弱り車いす生活で、言葉も不自由になっていたという。最後の公の場は08年10月、東京・小金井市の初代名誉市民の表彰式だった。真澄さんは「星野は仕事を愛した男でした」と話した。

 「演歌の詩人」として、「遠歌縁歌援歌」をつづった。夢は船員だった。46年に高等商船学校(現・東京海洋大)を卒業し、トロール船に機関士として乗ったが、腎臓結核で下船。腎臓の1つを摘出した。闘病生活を経て、52年に活路を見いだすために応募した雑誌の募集歌に入選したのが「星野哲郎」の誕生だった。星野さんはかつて「アマチュアなんですよ、僕はいまでも。頭でつくる天才的な人がいますけど、実体験から抜け出したものが書けないから」と話していた。

 「縁歌」は人との出会いを歌う。「僕の人生は偶然がもたらす出会いの人生」という。募集歌に入選し、作曲家の石本美由起氏、船村徹氏らに出会った。「北島サブちゃんや水前寺(清子)君との出会いは、良く歌ってくれる人との出会いだった」と話した。都はるみと出会い、デビュー曲「アンコ椿は恋の花」と引退曲「夫婦坂」を手掛けた。

 「遠歌」は「遠くにありて歌い、遠くをしのぶ歌」だった。海の男が病に倒れ、海を失った。その望郷に似た思いを詞に託して「函館の女」が生まれた。

 「援歌」は「人を励ます応援歌」。かつて「病気というものを踏み台に、参考にし、失ったものを取り戻したいと思っている」と語った星野さんの苦闘の経験が「三百六十五歩のマーチ」となった。

 星野さんの歌詞は、出だしが無意識に口をつくほど出色だった。<歌詞>三日遅れの便りを乗せて…(アンコ椿は恋の花)<歌詞>親の血を引く兄弟よりも…(兄弟仁義)<歌詞>この坂を越えたなら

 幸せが待っている(夫婦坂)。<歌詞>ボロは着てても心は錦…(いっぽんどっこの唄)は、学生が“ことわざ”と信じたほどの名文句だった。「この1行に命をかけているのですから」と話した不世出の作詞家が、2000もの未発表作品を残して旅立った。

 [2010年11月16日8時32分

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