今から143年前。1876年(明9)に、記録に残る上では最古の日米野球が東京で開催された。

「EXILE」というペンネームの人が、12月23日付のニューヨーク・クリッパー紙に投稿したことで、事実が伝わった。初夏の晴天の土曜日。野球を日本に伝えたとされるホーレス・ウィルソンらによるお雇い外国人チームと、東京開成学校(のちの東大)の学生たちが試合をした。11-34で敗れた中で、日本チームをけん引した侍がいた。

「3番遊撃」で出場した「Hwogama」だ。2得点を挙げ、アウトになったのは2度。日本チームの中では「1番一塁」の石藤と「6番三塁」の本山に並ぶ好成績だった。当時の野球は、今とだいぶルールが異なる。打者は「高めお願いします」や「低めにお願いします」などと投手にリクエストできた。下手から投げられたボールを打ち、守備はワンバウンドで捕球すればアウト。打撃の記録は得点数とアウトになった数が記され、多くの得点を挙げ、アウト数の少ない打者が好打者とされた。

遊撃というポジションは激務だった。内野手はそれぞれがベースについて守るのが基本。遊撃手は内野の打球をすべて処理しなければならず、能力の高い選手が守った。外野からの中継プレーも遊撃手の仕事。最古の侍ジャパンといえるこのチームで「Hwogama」は獅子奮迅の働きをしたはずだ。「EXILE」はその様子を「日本人たちは動きが素早く、送球がうまかった」と記している。

長らく、この「Hwogama」が誰なのかは謎のままだった。だが、今回、「EXILE」が音を頼りに日本人の名前をアルファベットに変換したという点にさらなる注意を払ってみた。特徴的な点がある。

「7番捕手」の青木を「Awokie」と表記している。「wo」の部分が共通している。そして「H」と「A」は形が似ている。メモをとった際に書き間違いや読み間違いが生じた可能性はないか? 大胆な仮説だが、「H」が「A」ならば「Awogama」となる。さらにもう1つ、「g」と「y」も同じ理由で間違えていたとすれば「Awoyama」と読める。

「Awoyama」ならば、この時代に1人、素晴らしい選手がいたのが記録に残っている。後の貴族院議員、男爵・青山元(はじめ)がその人だ。1896年(明29)7月22日の新聞「日本」に「好球生」というペンネームの人物が「ベースボールの来歴」という投稿をしている。そこには明治9年前後に野球が上手だった選手の名前が14人、記されており、青山元の名前は3番目に登場する。

残念ながら、青山元が野球について語った文書はなく、野球との関わりも新聞「日本」の記事を除いては見当たらない。だが、東京開成学校入学前に慶応義塾で学んだことから「慶応義塾出身名流列傳」に、人柄についての記載がある。

それによると氏は、人格高く貴族の風格の備わる人物だったが、偉ぶるところがなかった。そして、専門だった園芸について質問してくる者がいれば、階級を問わず何時間でも説明したという。侍ジャパンの源流にふさわしい品行方正な人物だった。【竹内智信】