歓喜の瞬間。一塁を守る愛甲の元へ、捕手の片平保彦が走ってきた。2人は抱き合った。

 愛甲 写真を見ると、マウンドの川戸(浩)は1人でガッツポーズしているでしょう。普通キャッチャーはピッチャーの元へ走るけど、片平がオレの方に来て、野手同士も抱き合ってマウンドへ行かない。川戸は1人になっちゃった。


80年8月、全国高校野球選手権で優勝し喜ぶ横浜の川戸(中央)
80年8月、全国高校野球選手権で優勝し喜ぶ横浜の川戸(中央)

 決勝戦のマウンドを譲った理由を聞いた。1年からエースとして守った位置で最後を迎えられなかった。なぜ、自ら降板を申し出たのか。

 愛甲 勝ちたかったから。絶対に負けたくなかった。それだけ。オレが続投していたら負けていたと思うよ。川戸なら抑えられる。勝てる。そう思ったから。

 ともに1年からレギュラーだった戦友の安西健二が、愛甲の心境を推測した。

 安西 もともと愛甲にも、心の中には「オレだけのチームじゃない」という気持ちがあったと思う。でも、それを表に出すヤツじゃなかった。表に出るのは、自己中心で「オレが、オレが」という面ばかり。でも、あの時は違った。「川戸、頼む」「みんな、頼む」。愛甲が、そういう気持ちを最後の最後に表に出してくれた。だから負けないで高校野球を終われたと思う。

 孤独を好み、思うままに振る舞っていたワンマンエースが、最後に仲間を信じてマウンドを降りた。愛甲にとっては完封するより…例えば後輩の松坂大輔のように甲子園の決勝戦でノーヒットノーランを達成するより、ふさわしい幕切れだったのではないか。そう言うと愛甲は頬を緩めた。

 愛甲 ボク1人に思われがちだけど、総合力が高いチームだった。県大会から試合をやるごとに強くなっていった。サード吉岡(浩幸)の成長が、あのチームを強くしたんですよ。レギュラーだったサードが野球部やめちゃって、後がまで頑張った。あとはキャッチャーの片平。ピッチャーで入ってきた選手だけど、何をやってもセンスがよかった。

 吉岡と片平は当時2年生。愛甲は、下級生ながらレギュラーを務めた2人の名をさりげなく出した。先輩とプレーする重圧はよく分かっている。彼らのおかげで勝てた。そう言える愛甲は、優勝から37年たった今もキャプテンなのだろう。

 優勝後も騒動はあった。同学年の部員とケンカになり殴ってしまった。数カ月が過ぎた翌年3月に表沙汰になり、後輩に対外試合の禁止が科された。すでにロッテに入団していた愛甲は、学校に駆けつけ後輩の前で謝罪した。最後まで波乱に満ちた高校生活だった。

 愛甲 本当にいろんなことがあった。でも、この3年間がなかったら、プロで20年も我慢してやれなかった。思えば、監督はよくあんな連中の面倒を見てくれたな。多分、ボクが渡辺さんに一番苦労をかけた選手だろうね。いろんな意味で。甲子園で優勝して、少しは恩返しできたのかな。

 この言葉を伝えると、当時監督の渡辺元智(72)はハンカチで目を押さえた。冗談めかすように「昔を思い出したら涙が出てきたよ」と笑った。

 渡辺 以前、人づてに愛甲が「渡辺監督と野球ができて幸せだった」と言っていたと聞いた。うれしかったね。一番心配していたから。松坂の心配とは比較にならない。思えば、愛甲たちと夏に初優勝して「ヨタ高」と陰口を言われなくなった。横浜高の野球部にとって愛甲の存在は大きい。平成もいろんなことがあったけど、やっぱり昭和も大事だね。いい時代にやらせてもらいました。


教え子である愛甲猛氏について語る横浜の渡辺元智前監督
教え子である愛甲猛氏について語る横浜の渡辺元智前監督

 愛甲は今、動画共有サイトのニコニコ動画などで高校野球を解説する。甲子園大会は全試合を観戦する。

 愛甲 高校野球を見る時は監督の表情を見ますね。目まぐるしい展開の中で、監督が瞬間迷った表情を見せるチームは大体ダメ。甲子園は勝つ空気を、流れを待っていたら絶対に勝てない場所。渡辺さんがすごいのは、勝つ流れを自分でつくる。歴代の名監督と言われた人は待っていない。

 今の高校球児に思う。

 愛甲 昔と違って悲壮感がないね。よく言えばさわやかだけど、悪く言えば逆境に耐えうるのか疑問に感じる。団結力があって、いい方にも悪い方にも全体で動いていくのも特徴だね。1人が意気消沈したら、みんな同じ表情をしている。偏屈者がいないのかな。

 制度への意見もある。

 愛甲 タイブレークはやめてほしい。筋書きがないドラマと言われる甲子園に台本を作っちゃいけない。

 高校野球の話は尽きない。

 愛甲 あらためて思うけど、球児たちが甲子園で頑張る姿はいいね。甲子園は野球人にとって特別な場所。頂点ですよ。プロに入ってからも、出たかどうかで立ち位置が違う。「えっ、お前出ていないの?」とかね。

 愛甲猛。その名の通り、今も甲子園を愛してやまない。(敬称略=おわり)

【飯島智則】

(2017年5月23日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)

15年7月、全国高校野球神奈川大会決勝の東海大相模対横浜戦のスタンドで応援した愛甲氏
15年7月、全国高校野球神奈川大会決勝の東海大相模対横浜戦のスタンドで応援した愛甲氏