大野が2年生だった90年、沖縄水産は甲子園で快進撃を見せた。

 ◆1回戦 7-1高崎商

 ◆2回戦 12-5甲府工

 ◆3回戦 5-2八幡商

 ◆準々決勝 8-5横浜商

 勝ち進むうちに、スタンドに配布されるうちわの文字が「必勝」から「優勝」に変わった。

 準決勝は、初出場の山陽(広島)との対戦だった。68年の興南、88年の沖縄水産が4強入りしたが、沖縄勢の決勝進出は1度もなかった。試合前夜、神戸市の宿舎「宝月旅館」では、午前0時半までバットを振る選手の姿があった。何とか乗り越えたい壁だった。

 試合は中村寿の2試合連続アーチなど11安打の猛攻で6点を奪って快勝した。沖縄勢として、初の決勝進出を決めた。

 大野は「5番右翼」で出場していた。準決勝まで22打数9安打。打率4割9厘と活躍していた。

 エースは3年の神谷善治。サイドスローからのシュートを武器とする、投球術にたけた投手だった。準決勝まで5試合すべてに先発し、44回を防御率1・02。2回戦の甲府工戦で10点差がついた9回をリリーフに任せただけだった。神谷たちは、沖縄返還…沖縄の施政権がアメリカから日本に復帰した72年に生まれた選手たちだった。

 5万5000人の観衆が訪れた決勝戦は、神谷が天理・南竜次と息詰まる投手戦を演じた。沖縄水産は相手を上回る8安打を放ちながら無得点。神谷は唯一のピンチに失点し、試合は0-1で敗れた。沖縄県勢初の優勝は持ち越された。

 この試合、大野は右翼の守備位置で考えていた。考えるほどに不安と重圧が大きくなった。

 大野 来年、自分たちはこの場所に立てるだろうか? そう考えると一気にプレッシャーになりました。神谷さんたちの代は本当に強いチームでした。自分たちも甲子園に戻ってこれるのか…そう思うと怖くなりました。

 日本一をかけて戦っている最中、大野は翌年も甲子園に出られるのか、そんな恐怖心に襲われていた。

 大野 神谷さんは疲れていたと思いますが、そういうそぶりも見せませんでした。決勝戦も接戦でしたが、最後までひょうひょうと投げていました。

 それがエースだと思った。マウンドに上がれば、1人で投げ切る。神谷の背中を見つめながら、翌年は自分の役目だと考えていた。ここに沖縄水産のエース道がある。甲子園ではベンチが三塁側の試合では、右翼から必ずマウンドを踏んで戻った。翌年への決意を込めた儀式だった。

 大野と同い年で、2年から中堅のレギュラーだった屋良景太が振り返る。

 屋良 実力では倫も投げられたと思います。神谷さんの2番手として。でも、監督はあえて使わなかったんじゃないかと。「来年、自分の力で戻ってくるんだぞ」というメッセージだったのかもしれませんね。

 準優勝の盾と銀メダルを持って沖縄へ戻った。決勝翌日の8月22日午後4時35分。那覇空港に到着するナインを5000人の県民が出迎えた。到着の2時間前には空港は人であふれ返り、当時の日刊スポーツでは「冷房が全く効かないという状況」と報じている。学校では、約7000人の糸満市民に迎えられた。

 練習ではグラウンドのフェンス沿いに車が並び、いつも地元ファンに見つめられる状態になった。「来年は優勝だね」「期待しているよ」。いつも、そんな声が聞こえた。

 大野 期待はすごかったですね。どこに行っても声をかけられた。それは…ものすごく苦痛でしたね。

 もはや日本一は、監督の栽弘義や学校の目標ではなかった。沖縄県の悲願になった。

 そんな中で大野はエースナンバーを背負った。そして、大野の人生を変える日が訪れる。(敬称略=つづく)

【久保賢吾】

(2017年6月24日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)