15歳エースはあまりの熱狂ぶりのため、家に帰ることができなかった。77年夏の甲子園決勝は8月20日。準優勝した東邦(愛知)の坂本は翌21日、チームと名古屋駅に帰ってきたのだが…。祝賀パレードに押し寄せた人は約1万人。学校にも1万5000人超のファンが集結。その多くが女子学生で、目当ては坂本である。自宅周辺にも500人以上が待ち構えていた。

 周辺への迷惑を考慮すると帰宅できる状態ではなかった。そこで「避難先」となったのが、監督だった阪口慶三の自宅。だが22日朝に、その情報が漏れてしまうと、今度は阪口宅に女子学生が殺到した。やむなく、坂本は団地形式の実家に戻るのだが、家のドアの前をファンに取り囲まれる騒ぎとなった。

 フィーバーは続いた。

 甲子園後の高校日本代表合宿。坂本は1年生で唯一、メンバー入り。選抜された投手はほかに、優勝した東洋大姫路(兵庫)の松本正志、4強入りの大鉄(大阪)前田友行、今治西(愛媛)三谷志郎。松本はその年の阪急ドラフト1位、前田も阪神入りするなど、そうそうたる顔ぶれだった。

 合宿所でともに時間を過ごした松本が言う。

 松本 全員投手の4人部屋。だから坂本ともずっと一緒やった。前田はバカなことを言って盛り上げる感じ。三谷は辞書持ってきて勉強していた。早大の政経に入ったからね。坂本はすごい人気があった。

 合宿所の周りにはファンがいつもいた。坂本が「アイスクリーム食べたい」と言ったら、買って持ってきてくれたこともあった。

 松本 あと覚えているのは「3時のあなた」っていう森光子さんと須田アナがやってたフジテレビの番組で、生中継でインタビューしてたよ。合宿所とかグラウンドでね。横におったから俺もインタビューされた。それくらい人気があった。

 この項の冒頭で書いたパニックの際、坂本がこぼした言葉は「今はただ眠りたいです」だった。だが、気を許せる時間は、3週間の甲子園を境に激減。常に周囲に見られているストレスに悩まされるようになる。

 坂本 全国区になっちゃった。野球以外でも「坂本をつぶせ」みたいな外の力も出てきた。

 登下校中は見知らぬ他校の生徒に、言いがかりをつけられることなどざらだった。地下鉄に乗れば、好奇の目を向けられた。練習を終え、疲れて最寄り駅まで居眠りしていると「大きなバッグを抱えもせずにドカンと床に置いて、大股を開いて寝ていた」との投書が送られた。身に覚えもないことばかり。けんかを売られたこともあった。「平謝りして、その場から逃げるしかなかった」。唇をかみしめる日々だった。

 常に品行方正を心がけた。1つ1つの言葉や行動に気を使った。築き上げられたイメージを壊すわけにはいかないと思った。アイドルになってしまった故の苦悩の中、野球をやめれば楽になるかもしれないという考えも頭によぎるようになった。次第に、はつらつとした笑顔が消えていった。(敬称略=つづく)

【宮崎えり子】

(2017年8月9日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)