「神奈川を制するもの全国を制す」。1972年(昭47)に始まった高校野球漫画「ドカベン」に出てくる言葉だ。70年夏は東海大相模、71年に桐蔭学園が連覇。桐蔭学園の監督は24歳と若い木本芳雄だった。

  ◇   ◇   ◇

 監督として71年に24歳で全国優勝した木本芳雄は、桐蔭学園を神奈川きっての強豪に成長させた。水上善雄、長内孝らプロを輩出。慶大への進学ラインを形成し、文武両道の道筋もつくった。ところが82年夏、神奈川大会の1回戦で相洋に0-10で7回コールド負け。夏のコールド負けは就任以来初で、横浜スタジアムでの開幕戦だった。

 木本 開会式の後で結構(大きく)新聞に出てしまって責任を取って辞めた。勝負に携わっている以上は仕方ない。教員の免許を取りたい気持ちもあった。

 験を担いで奇本から木本に改姓するほど衝撃を受けた。後に慶大で31勝を挙げる志村亮が1年生だった。法政二の元監督、田丸仁に「3回は甲子園に行ける」と言われた好投手。勧誘した志村を卒業させたら、後進に道を譲る時期とも考えていた。優勝時の4番、土屋恵三郎に監督を譲ると、教え子の父が経営する建築会社に就職。母校の駒大に聴講生として通い、社会科の免許を取得した。

 木本 商業科の免許は持っていた。昔の神奈川は商業都市。大学進学が盛んになり普通科の免許が必要になった。親御さんも免許がないとああだこうだ言うようになり、日本高野連も免許がない人にやらせないような向きがあった。

 志村の父と「他校で指揮を執らない」と約束した2年が経過し、藤嶺藤沢の監督に就任した。5年で甲子園に連れて行くと約束したが、就任翌年の85年夏に同校初の出場を決めた。神奈川で2校を甲子園に導いた監督は珍しい。指導方法も変わった。

 木本 桐蔭の最後のあたりはかなり厳しかったから、いい選手が、だいぶやめていた。いけないのかなと思いつつ、なかなか自分では変えられなかった。(生徒として)若い大学生と一緒に勉強して、ずいぶん気質が違うなと気が付いた。

 ふるい落とす練習から、長所を伸ばす指導に変えた。「エラーしようが三振しようが気にしないで思い切りやれ」と声を掛けると、選手が伸び伸びプレーするようになった。体罰は「ほとんどしてない」という。5年間の約束だったが、4年半で「いいチームができた。強いチームの時に渡してやらないと」と勇退。後に西武入りした石井貴が2年生の秋だった。

 担任を持ち、社会科の教員として3年間務めた。93年、相洋、母校の武相から監督として誘われた。

 木本 武相には追い出されたから本当はやりたくなかった。でも(前監督の)古賀(正)くんがどうしてもと言うから。

 旧知の古賀氏だけでなく、教育実習で世話になった恩師にも頼まれた。愛憎半ばだったが「やはり母校の監督をやりたいというのは誰しもありますから」と引き受けた。10年指揮を執ったが、夏の神奈川大会で4強1度と満足いく成績を残せなかった。

 木本 僕らのころとは全く違っていた。月曜と火曜はグラウンドで練習できず、どうしても練習が足りなかった。晩年は野球というより自分との格闘だった。こんな負け方していいのかな、築き上げた野球がゼロになってしまわないかと。

 引退後は、ケーブルテレビで解説をしている。

 木本 いい投手をさらに良くしようとして長内、水上、渋井はパンクし、みんな野手にしてしまった。選手の潜在能力、適材適所を見つけることが指導者には一番大切だと思う。

 神奈川球界の生き字引は、成功も失敗もあった経験を基に、発展のために歯に衣(きぬ)着せぬ発言を続ける。(敬称略=おわり)

【斎藤直樹】

85年8月、第67回全国高校野球 エース大立を励ます藤嶺藤沢・木本芳雄監督(左)
85年8月、第67回全国高校野球 エース大立を励ます藤嶺藤沢・木本芳雄監督(左)