61年に起きた「門岡事件」は、高田(大分)のエース門岡信行投手が初戦敗退した甲子園からの帰途、別府港で中日への入団を表明したものだった。まだ甲子園の大会期間中で、退部届提出前のプロ側との事前交渉も表面化した。個人の問題が連帯責任となり、高田には1年間の対外試合禁止処分が科された。

この決定に対して地元の人権擁護委員会から「門岡投手個人の問題で処分がチーム全体に及ぶのは一種の人権問題」と要望書が提出された。“佐伯天皇”と称された日本高野連副会長(のちに会長)の佐伯達夫(享年87)は、国会に呼び出された。高校生がプロ球団と契約するのは職業選択の自由であり、連帯責任は人権問題-。そんな追及に対して、参考人として出席した佐伯は「高野連の方針に賛同するものだけで甲子園大会を開いている、として突っぱねた」(高校野球100年史=東京堂出版)。

プロ側への不信感、警戒心は強まり、翌62年からは、プロ野球OBの指導者受け入れやプロ野球関係者との接触を一切禁じた。のちに日本高野連で佐伯と12年6カ月ともに過ごした田名部和裕(72=現理事)は「僕が入ったのは昭和43年(68年)。もう佐伯さんにしたら、問題にしていないというか、プロなんてけしからんと。あれは別世界だと。没交渉のまっさなかです」と振り返る。プロアマの関係は、長い冬の時代に突入した。

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「門岡事件」から半世紀以上たった現在、プロアマ関係の雪解けは劇的に進んでいる。プロOBの高校野球監督就任が認められた84年には、教員として勤務10年(94年から5年、98年から2年)が必要だったが、13年からは学生野球資格回復制度が採用された。プロ側、アマ側の計3日間研修を受講すれば、教員免許がなくても高校生を指導することが可能になった。

プロと高校生の関係は、時間をかけ、着実に改善してきた。

田名部が日本高野連事務局長だった02年の夏、当時の日本プロ野球選手会事務局長、松原徹(享年58)に甲子園近くのホテルに呼び出され、相談を受けた。

「年末のオークションで集まったお金が1000万円あるんです。それを高校野球に役立ててほしい。どんな方法がありますか」

当時の加盟校は約4000校。高校生にとって一番必要だったのはボールだが1ダース約1万円で、4000校だと4000万円かかる。田名部は「予算的に厳しいとなったんですが、ちょうど21世紀という言葉がどんどん出てきた時で。21世紀になって2年間未勝利の学校。これが1320校だったんです」。

4000校に平等にという発想からスタートし、野球道具も十分にそろっていない可能性がある高校に着目。400人以上のプロ野球選手が手紙を書き、半ダースのボールが入った箱に入れ、キャンプ中に直接届けに出向いた。

田名部は「西武は高知でキャンプをしていて、松坂投手がユニホームのまま持って行ったんです。その時彼がどう言ったか、今でも覚えているんです。『僕もユニホームを着ているけど、一緒には練習できないんですね』って」

現役プロ選手の高校生への直接指導は今でも禁止されている。ただこの交流の中で誕生したのが、現役プロ選手によるシンポジウム「夢の向こうに」だった。

03年12月に大阪、翌1月に東京で初開催し、計271校、4191人の球児と指導者が集まった。古田、宮本(当時ヤクルト)、三浦(当時横浜)、松坂(当時西武)らユニホーム姿の選手が、高校生に自身の経験や練習方法を伝えた。誰もが高校野球を経てプロになった思いがある。「夢の向こうに」は現在も毎年続く。地道な取り組みが、プロアマ関係を改善する大きなきっかけになっていった。

(敬称略)【前田祐輔】

(2018年4月23日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)