全国高校野球選手権大会が100大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第14弾は「甲子園のプリンス」と呼ばれた太田幸司さん(65)です。1969年(昭44)夏の甲子園の決勝で太田さん擁する三沢(青森)は、松山商(愛媛)と激突しました。延長18回引き分け再試合の激闘の末、再戦に敗れて準優勝投手となった美貌のエース。その高校時代を8回の連載でお届けします。

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あの夏から44年の月日が流れていた。69年夏の準優勝投手が、甲子園に帰ってきた。2013年8月11日。第95回全国高校野球選手権1回戦で沖縄尚学と戦う福知山成美(京都)のアルプススタンドに、太田はいた。同校主将の長男幸樹(当時3年)の応援のため、アルプスに陣取った。

「甲子園のプリンス? 今はプリンスメロンやで」。だじゃれを飛ばし、まわりを囲んだメディアをあぜんとさせた。標準語にまじる言葉は「甲子園の王子さま? 今はオジサマやで」とべたべたの関西弁。全国の女性ファンの心をわしづかみにした美少年は、ころんと太った気のいいおっちゃんになっていた。そして、汗まみれで、高校時代に気付かなかった幸せを満喫していた。

太田 むちゃくちゃ暑くて。チャンスのときに応援団がみんな立つから、ぼくも立ったら、立ちくらみ。マウンドで投げてたあのときの方が絶対に楽やったわと思ったもの。すごい! こんなして応援されてたんだなとあらためて思ったもの。いろんな人たちの応援のありがたみを肌で感じました。

「甲子園のプリンス」を「アルプスの父」にしたのは、長男幸樹の奮闘だった。幼いころはサッカー少年だったが、売布(めふ)小3年から野球に転向。高校の進学先に、京都屈指の強豪を選んだ。兵庫・宝塚市の実家を離れ、福知山で寮生活。100人前後の部員でベンチ入りを争う競争が待っていた。

太田 選手としては全然たいしたことない。甲子園に出ても、お前はスタンドで旗振りをせないかんかもしれん。どんな状況になっても、3年間ベンチに入れなくても、腐らずやれる自信はあるか? と聞いたら「やる!」と言うから、じゃあ一生懸命にやれと送り出したんです。

3年夏の甲子園。幸樹は主将兼控え投手でベンチ入りを射止めた。今は岐阜第一で指揮を執る監督の田所孝二は、幸樹が入部したころから「いろんなことをよく見ている。信頼できる」と認めていた。さらに太田ジュニアには、監督が目を見張る才能があった。

田所 試合中、太田が伝令に行くとみんなが落ち着く。特別なことを言うわけではないけど、みんなが落ち着いたんです。

甲子園大会1回戦の沖縄尚学戦で、太田主将はその力を発揮。3度のピンチで伝令に走り、3度ともナインは息を吹き返して無失点で切り抜けた。伝令規定の3回目を6回2死一、三塁で使いきり、マウンドに行けなかった7回に決勝点を奪われた。登板機会は巡ってこなかった。だが「(力投する同僚が)三振を取れば自分のことみたいにうれしかった。アウトを取ったら、自分が取ったように思えた」と仲間を思い続けた。

太田幸樹 父の座右の銘は「忍耐」。高校に入ったとき、福知山成美の帽子のつばに父にその2文字を書いてもらいました。「しんどいときこそ一番頑張れ」と言われてきました。

69年の夏、2日がかりの決勝で太田幸司の27イニングを支えた心が、そこにあった。(敬称略=つづく)【堀まどか】

◆太田幸司(おおた・こうじ)1952年(昭27)1月23日、青森・三沢市生まれ。三沢高2年夏から投手として3季連続甲子園出場。3年夏には松山商と大会史上初の決勝戦延長18回0-0引き分けの熱戦を演じた。翌日の再試合に2-4で敗れ準優勝。69年ドラフト1位で近鉄に入団。ファン投票でオールスターに7度選ばれる。入団5年目から10勝、12勝、9勝、10勝と順調だったが、79年に肩を痛め、巨人、阪神に移籍し84年退団。プロ通算58勝85敗。勝衣夫人との間に2男1女。MBS解説者として活躍するかたわら、09年8月から日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーを務める。

(2017年8月21日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)