末次の高校最後の夏の全打席を記してみると、ある傾向がはっきりと出ている。1976年(昭51)夏に刻まれた8打席連続安打は以下の通りである。

▽2回戦(初戦、三重戦)=<1>中安<2>中安<3>右安<4>右2

▽3回戦(2戦目、PL学園戦)<1>右安<2>左安<3>右安<4>中安

右打者ながら最も多いのが右方向で4本。あとはセンターが3本で、引っ張った左方向は1本だけである。その左方向の1本もヒットエンドランのサインが出ていたため、遊撃手方向に転がしたゴロだった。8打席中、末次の持ち味である大きな体を使った豪快な打球は1度もない。高校通算39本塁打のプロ注目スラッガーは、本領を発揮しないまま甲子園を去った。

勝利を目指した結果、センターから右への安打が7本という結果になった、というわけでもなかった。腰が悲鳴を上げていたのだ。

末次 福岡大会の準決勝、決勝あたりから、腰が痛くなっていた。バットの振りすぎ。自分の体と練習量がバランス取れてなかった。甲子園の打席では思い切り打てなかったんです。打球も引っ張ってないでしょう? 当てるだけの打撃しかできないわけですから。

勝利のために何ができるのか。腰に負担がかからないミート打法に徹した結果、8打席連続安打につながった。何がどう影響するか人生分からない。天のみぞ知るとはこのことだろう。

記録を生んだバットにもサイドストーリーがある。末次が8打席すべてに使ったスラッガー製の金属バット。実は、この2試合8打席だけしか使っていない。

バットを巡る話は、少々時間をさかのぼったところから紹介したい。末次が小学生のころ、近所の公園で遊びの野球をしていたところ、知らないおじさんがよく来て、野球の指導をしてくれていたという。

その「おじさん」は、鳥栖(佐賀)の野球部監督を務め、13年12月末に亡くなった平野国隆だった。同校OBで今年セ・リーグ連覇を達成した広島の監督、緒方孝市の恩師。そして94年から毎年ゴールデンウイークに九州各地から高校を集め、練習試合を行う「クロスロード鳥栖」を開催するなど九州の高校野球界のレベルアップに尽力した人物である。

末次 平野さんにお世話になった。自分が監督になっても長い付き合いになった。その平野さんから(高校)最後の夏の甲子園出場記念だといって(76年夏の大会前に)いいバットをもらった。当時のスターだった東海大相模の原辰徳も使っていたタイプと同じでした。ただ、34インチと長かったため自分には使いこなせず、夏の甲子園から6番を打っていた田中(守)とバットを交換したんです。

34インチのバットを思うように扱えなかったのは、腰痛が影響したかもしれない。贈られたバットより1インチ短い33インチの“借り物”で新記録は作られたのである。8打席連続安打を生んだ「相棒」は末次の自宅のきり箱に保管されている。

末次 このバットは8打席連続安打しか使ってませんからね。打ち取られていないバットです。

まさに魔法のバット。もし腰痛がなかったら。もしバットを換えていなかったら。運命に操られるように導かれたが、従来の記録を塗り替えた7本目の安打にもある伏線があった。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】

(2017年10月8日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)