1952年(昭27)4月、広瀬は大野町の隣にある大竹市の高校、大竹に進学した。中学時代に地元で注目を集めていた広瀬には、強豪の観音(現広島商)や地元の廿日市などから誘いがかかっていた。だが、本人はまったく野球を続ける気はなかった。

広瀬 大学に行って、教師になろうと思っていた。姉が教師で、その夫も教師。親戚にはほかにも大学講師なんかがいたので、その影響でな。田舎だし、教師の職は安定しているのを知っていたこともあって、大学に行けたら行って…と。野球でメシを食おうなんて、これっぽっちも考えたことはなかったよ。勉強? まあまあできたよ。小学校の時、児童の代表で壇上に上がったりしたからな。中学の時も、定期試験の時にクラスで上位3人は名前が発表されたけど、それにもいつも入ってた。

大竹を選んだのは、廿日市には普通科がなかったからだった。しかし、広瀬にはそれまで勉強の習慣がなく、レベルの高い高校では苦戦。授業を熱心に聞いていればなんとかなった中学時代とは違っていた。

広瀬 できれば広島大に行きたいと思っていたけど、物理とか化学とか分からんし、いかに要領よく単位を取るかを計算していた。途中で「こりゃダメだ」と思ったよ。

そんな広瀬には、入学当初から大竹の野球部の先輩から入部の誘いがかかっていた。同校は1921年(大10)に大竹女子実業補修学校として開校。普通科ができたのは48年で、野球部も50年に創部したばかりだった。広瀬は中学時代に名を知られた存在だっただけに、それは熱心な誘い、というレベルを超えていた。下校時には、野球部の部室前を通らねばならず、そこに毎日、先輩たち4~5人が待ち構えていた。「おい、広瀬ちょっと来い」「嫌です」「そう言わず部室に入れ」などというやりとりの末、なんとか振り切って帰るという生活が続いた。部室に連れ込まれ、身の危険を感じたこともあったという。

広瀬 あんまりしつこいからほとほと嫌気がさして、学校をやめようかと思っていたんや。

それが一転、広瀬は1年の夏、野球部に入部する。きっかけは地元の新聞に載った高校野球夏の広島大会の展望記事だった。

広瀬 観音の新戦力として紹介されていた選手が、中学時代に一緒にやっていたやつだった。

心の中で、「オレのほうがうまい」と思っていた選手だった。

広瀬 その選手が県でトップクラスだと書かれていて、それなら自分だってやれると思ったんや。おかしなもんやけど。

負けん気を刺激された広瀬は、すぐさま野球部顧問の教師のもとに向かった。「野球をやります」。そう告げた日のうちに野球部のメンバーに紹介された。勧誘を断り続けていたが、先輩たちは「よく来てくれた。頑張れよ」と快く広瀬を歓迎してくれた。目の前に初めての公式戦が迫っていた。(敬称略=つづく)【高垣誠】

(2017年11月17日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)

広瀬氏が在籍した当時の大竹高。現在と違い、海のそばにあった
広瀬氏が在籍した当時の大竹高。現在と違い、海のそばにあった