もう60年以上も昔の話なのだが、王の記憶は鮮明だ。それだけ甲子園は強烈なインパクトを、16歳になったばかりの野球少年に与えたのだろう。1956年(昭31)、高校1年の夏。王は初めて「聖地」の土を踏んだ。

 ずっと東京だったから、甲子園なんか行く機会なかったし、とにかくデカかったという印象ですね。スタンドも高かったし、あの銀傘がすごかった。神宮では試合やったけど、神宮の大きさとは全然スケールが違ったよね。

開会式では代表校は一塁側スタンドの下で待機し、順番に入場行進に入る。「(待機している)スタンドの下の広さもね、神宮行ってもあんなのないしさ。甲子園というのはやっぱり圧倒されたね」。球場の大きさ、広さを表現するために両手を広げたり、上下させたり、王は16歳の時の感動をジェスチャーで何度も示してみせた。

初戦の新宮戦は登板がなかった。入学直後にレギュラーの座はつかんでいた。のちに「一本足打法」の師匠となる荒川博とは中学2年の初冬に出会い、右打者から左打者へ転向している。都立の受験に失敗し、野球での早実進学を決めたのもOBである荒川の存在が大きい。新宮戦は投手ではなく、左翼で先発出場した。王の甲子園デビューは「野手」であった。打順は5番。注目の1打席目は好機で投ゴロに終わった。初戦は4打数1安打。記念すべき初ヒットは9回無死一、二塁からの送りバント。ラッキーにも安打となった。

 (初戦の新宮戦は)開会式の直後の第1試合だったからね。負けちゃうと、すぐ東京に帰らないといけないんだよ。1年生だし余裕もないし、地面に足がつかないような感じだった。

新宮戦は2-1の辛勝。2回戦はお盆も過ぎた16日だった。対戦相手は岐阜商。王は先発マウンドに上がった。「投手」としての“甲子園デビュー”でもあった。開幕した日に関西で35度超を記録することもあった気温はわずかに下がったものの、王の気持ちはあがりっぱなしだった。

 マウンドに上がっても、緊張感で捕手がよく見えないような感じでした。

岐阜商(現・県岐阜商)は優勝候補だった。センバツ準Vの2年生エースの清沢忠彦が絶対的存在としており、王との投げ合いは注目された。同じ左腕の清沢は計4度甲子園にチームを引き連れた。準V2回、翌年にはノーヒットノーランも達成した。プロ入りすることはなく、慶大に進学後は社会人野球の道を選んだ。

 相手は清沢さんだった。1-8で負けたんだ。その1点も清沢さんは途中で代わって、野手みたいな人が投げて取った。林さんだったかな。結局、清沢さんとはプロでは縁がなかったね。

先発した王は大乱調だった。初回に3連続四球など1点を失った。制球が定まらず3回持たず外野へ回った。5回から再登板したが、計6回2/3を投げ、5安打9四球、2失点。1年生左腕は大役を果たすことができなかった。制球難という大きな課題を残し、貴重な聖地デビュー登板は苦々しく終わった。初めて体験した甲子園。喜びもつかの間、屈辱を味わった王は帰京すると、さらに厳しさを味わった。(敬称略=つづく)【佐竹英治】

(2017年12月23日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)