傷心の王は東海道本線を上る列車に揺られていた。10日ほど前、胸躍らせて向かった甲子園。車窓から見る景色は同じように感じなかった。自らの乱調で先輩たちの夏にピリオドを打った。悔しさ、情けなさ…。いろんな気持ちが混ざり合った。列車はそんな王の体を揺らした。

東京駅に着いた。初の甲子園の旅は終わりではなかった。

 甲子園から帰って、東京駅に着いたら、すぐ「練習だ!」と。3年生はいいよ。(引退で)おしまいだから。1、2年生は東京駅からそのまま練馬の練習場へ直行ですよ。「こりゃ、すごいとこに来たな」と思ったよ。

王の述懐からすれば、早実はスパルタ野球ではない。現在と比べても進歩的な野球学校だった。甲子園敗退から休みもなくグラウンドに直行。残暑の中での強行練習は伝統校としての意地でもあったのだろう。入部直後にレギュラーとなって甲子園まで快進撃を続けたチームにあって、夏敗戦は大きな区切りであったはずだ。この夏の1日から文字通り王を中心とした新チームが始動することになった。

王を始め、野球界に多くのOBを輩出してきた早実野球部は、この時、どのチームにもまして進取の気鋭に富んでいた。王入学の前年に監督に就任した宮井勝成、同校OBで朝日新聞記者だった久保田高行が中心となって早実野球を進化させていった。特に、久保田の存在は王に強烈な印象を残している。

 久保田さんという方がおられてね。あの頃いくつくらいだったのかねえ。55歳くらいだったのかなあ。その人がアメリカ野球をすごく研究している人だったんですよ。日本的な精神野球ということではなくてね。野球っていうのはこうだ、という自分なりの考えを持った人だった。

王の記憶はほぼ正確だ。久保田は1903年(明36)生まれ、王が1年生の時は53歳だった。早実OBで朝日新聞記者、帝京大野球部の監督も務めていた。終戦間もない48年(昭23)には「野球 理論と技術」という本も書いていた。久保田がグラウンドに現れると、部員の雰囲気が変わるほどの威厳に満ちていたという。週末の遠征試合も久保田らがコーディネートした。王は入学時から退部まで「土日は必ず遠征だったから、土曜日の授業は受けたことがない」と、笑う。今でこそ野球強豪校は週末、多くの遠征試合が組み込まれているが、この時代はそう多くはなかったはずだ。

 土曜日は朝、駅に集合して電車で移動して。長野行って野球やったりとか、桐生とか。仙台も行った。その当時の強い学校によく行きましたよ。

高校生といえば、多感な思春期。恋心も大いに芽生えるところだが「(学校で)ほかの連中は土日に『こういうことがあった』とか言っていたけど、こっちはそういう時間ないんだから」と、王は身を乗り出して悔しがってみせた。

王以上にこの夏の敗戦の悔しさをかみしめたのは宮井、久保田の指導者だったのかもしれない。投打に超高校級の実力を持った1年生が入ってきた。初の全国制覇へ向け、期待が高まるのは当然のことだった。(敬称略=つづく)【佐竹英治】

(2017年12月24日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)