1957年(昭32)のセンバツは、まさに「王による、王のための」大会だったと言っても過言ではない。エースで4番の王が率いた早実は見事に優勝した。全国初制覇であり、紫紺の大旗も初めて箱根の山を越えた。

初戦(2回戦)の寝屋川戦から決勝の高知商戦まで王は4日連続の4連投だった。3連続完封勝利で決勝進出し、4試合で失点は決勝の3点のみ。4番打者としても、ホームランこそなかったが、4試合で4安打5打点。決勝戦では先制の二塁打を放つなどきっちり仕事を果たした。

大会前から左手の人さし指と中指にマメをつくり、甲子園でマメがつぶれた。決勝前には東京から父仕福(故人)が駆けつけ高麗にんじん入りの塗り薬で手当てしたという有名すぎるエピソードがあるが、王にとっても厳しい4試合だったことは確かだ。

優勝翌日の4月8日付の日刊スポーツ1面は「早実、輝く初優勝」の見出しで、王の力投の様子とともに手記も掲載した。


優勝の喜び、どうしてこんなに大きいのでしょう。ほんとうに優勝がきまった瞬間には涙が出てくるのをどうしようもなかったです。(中略)私がピッチングに自信を持ち出したのは対柳井高の二回ごろからでした。練習のときよりグンとスピードが出はじめたことと、カーブが切れだしたことで“これならまだ投げられる”という自信がわいたので、やはり僕にとってはノーワインドアップで投げるピッチングが一番よかったと思っています。僕のもっとも大きな欠点だった制球難がなくなったからです。あれで四球をもっと出しておれば、こんなに楽に勝ち進めなかったでしょう。(中略)“優勝”という僕にとって最大の贈り物でした。僕はこの大会では最上の出来だったと思います。力一杯やってかちとった優勝だと。これで晴れて東京のみなさまに会えると思います。野球をする場合の座右の銘“いついかなるピンチでも平常の落ち着いた気持ちで”これが今大会の私のすべてだと思います。これで一つの大きな自信がつきました。いまは優勝の喜びで何も考えられないボクですが、ただ一つ“夏の大会も出場して勝つんだ”という望みで一ぱいです。


たぶん、下書きは王自身だろう。高校生の時から「気遣いの人」だったことが文面からもうかがえる。

60年前のVシーンを振り返った王は言った。

 このとき俺はまだ16歳だよね。昭和32年でしょ。(センバツは)第1シードされたのかな。昔は(出場)チームが少なかった(20チーム)でしょ。ひとつ勝ったら準々決勝、次は準決勝、決勝…。その代わり4日連チャンだったからねえ。こんなに一生懸命になること今あるかなあ。懐かしいね。

紫紺の大旗を手にした早実ナインはオープンカー4台に分乗し、東京から早稲田までパレードした。早実初Vを祝福するかのように、快晴だった。(敬称略=つづく)【佐竹英治】

(2017年12月27日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)

早実の優勝紙面を懐かしく振り返るソフトバンク王会長
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