80年春のセンバツ、帝京監督の前田三夫は伊東昭光(元ヤクルト)を擁して初めて甲子園の決勝まで勝ち上がった。延長10回0-1で高知商に敗れたが、全国制覇まであと1歩までこぎ着けた。

帝京で野球がやりたい。選手集めに苦労した時代は過去のものになり、そんな気持ちを持つトップ選手が集まるようになった。「甲子園で優勝したいという気持ちがものすごく出てきた頃かな。そして、手応え十分なチームが出来上がったんです」。83年春。帝京は「東の横綱」と称されたチームをつくりあげ、3年ぶりのセンバツ出場を果たした。

初戦の相手は池田(徳島)。蔦文也(享年77)率いる「西の横綱」だった。1回戦屈指の好カードに抽選会の会場は沸いた。

前田は33歳。自信に満ちていた。開会式前日に甲子園のバックネット裏で行う恒例の監督対談が、蔦との初対面だった。

「こう言っては失礼だけど、ただのおじいちゃんだろうと。僕自身の若気の至りで、普通であれば大先輩ですから僕の方から足を運ぶんですけど、そんな気持ちがなくて向こうから来てくれましたよ。かっぷくのある白髪頭のご老体だなという感じで、ごあいさつして。座ったんです」

並んで腰を掛けた瞬間に、嫌な予感がした。

「座った瞬間に圧倒された。負けたと思いましたね。この人には勝てないと思った。蔦さんが一生懸命持ち上げてくれるけど、目の奥は余裕ですよ。人間的なスキがあるのかと思ったら、スキがない」

試合は0-11の大敗だった。ベンチで足を投げ出した蔦が、手を掲げて「打て」のポーズを取ると、次々に長打が飛び出した。前田は「こんなすごい監督がいるんだったら甲子園で優勝は絶対に無理」とショックでふさぎ込んだ。

東京に戻ると、蔦の書物を読みあさった。広島からフェリーに乗り、誰にも気付かれないようにスタンドの最上段から蔦の采配を見に行ったこともある。「僕なりの結論的なものは、蔦さんは苦労の塊の人だ。修羅場をくぐり抜けた強さかなと。そういうものにたどり着いた」。

前田自身、母校ではない帝京で指揮を執り、厳しい指導に対する周囲からの反発を受けてきた。人一倍苦労をしてきたつもりだったが、まだ足りなかった。

「自分が一番苦手なもので、自分をつくりあげていかないとダメ。当時の校長先生に教壇に登るお願いをしました」

事務職員として指揮を執りながら、東洋大の通信教育で、5年かけて社会科の教員免許を取っていた。ただ「野球が面白くなった頃で、本音では教壇に登る決意は正直なかった」と言う。それが、池田戦の大敗で変わった。修羅場をくぐることが、蔦に近づく道だと信じた。「もともとは勉強の嫌いな生徒でしたから。人に教えるというのは責任がある」。練習後に3~4時間机に向かう日々が続いた。ノックを打ちながら翌日の授業内容に頭を悩ませた。「蔦さんに会って、また1つ挑戦することになりました」。そんな地道な思いが、実を結ぶ日がやってくる。89年夏のことだった。(敬称略=つづく)【前田祐輔】

(2018年1月24日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)