帝京監督の前田三夫は、89年夏にエース吉岡雄二投手(元楽天)を擁して、悲願の日本一に輝いた。仙台育英(宮城)との決勝は、延長10回、2-0で競り勝ち、深紅の大優勝旗を手にした。92年春は三沢興一投手(元近鉄)を中心にセンバツで初優勝。91年春からは4季連続甲子園に出場し、高校野球界は、帝京の黄金時代に突入した。

「その当時は、猪突(ちょとつ)猛進だから。勝てばいいというものが強かったですよ。勝っていけば、人間というのは脇が甘くなる。高校野球はファンも多いですから、勝ち方っていうのがありますよね」

前田の記憶にも強く残る“事件”は、95年夏の東東京大会4回戦、八丈戦で起きた。離島勢初の8強入りを目指したチームと対戦したが、序盤から力の差は歴然。5回で10点差がつけば試合は終わる。9点リードで迎えた6回裏1死一、三塁。左前打が出たが、三塁走者は本塁へ走らなかった。続く2者は力なく三振。コールド勝ちを避けることで、7回表に投手を調整登板させたかった。

試合翌日の日刊スポーツには、前田の「申し訳ないが、(エースの)本家に1イニング投げさせたかった。八丈には頭を下げたい」というコメントが掲載された。神宮の一部のファンは騒然となり、東京都高野連には30本近くの抗議電話が寄せられた。

「当時のピッチャーはヒジ痛があったので、痛み止めを飲んでどのくらいもつか試したかったんです。やっぱり見る方、相手からしてみれば面白くないですよ。真剣勝負ですから、相手の気持ちを考えなきゃいけないですね」

高校野球とは。スポーツマンシップとは。物議を醸す中で、帝京は勝ち続けた。甲子園に出場すると決勝で星稜(石川)を破って3度目の日本一に輝いた。だが前田は、心の底からは喜べなかった。

「甲子園で優勝したチームというのは、ただ勝つだけじゃだめなんだ。そういうものの考えというのが出てきましたね。私たちは高校時代からスパルタでやってきて、勝つためには手段を選ばなかったですよ。勝負の世界ですから。表現的には良くないけど、ずる賢くやったチームがうまい。鈍くさいチームはずるさがない。勝てば称賛される。そういう印象が強かった時代でしたね」

大会後、従来は甲子園の優勝監督が務めていた日本代表監督を辞退した。

「時代も変わっている。それと同時に高校野球も変化している。生徒は喜んでましたけど、指導者として、流れを感じ取れなかった自分に甘さがありましたね。後味の悪いものを残したら指導者の責任ですね」

高校野球は時代とともに変わる。ただ勝てばいい。スパルタで鍛える。そんな時代は終わりに近づいていた。

自主性。生徒自身の考えを尊重する言葉が、キーワードのようになって世の中に浸透し始めた頃だった。森本稀哲(元日本ハム)に主将を任せた98年夏。「帝京の野球は古いと、そういう声もあがってきた。それだったら時代も変わっているし、空気を読まなくてはいけない。だったら自主性というものを入れてみよう」。この決断で、再び前田は大きな壁にぶつかることになる。(敬称略=つづく)【前田祐輔】

(2018年1月25日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)