86年秋に馬淵史郎は阿部企業の監督を辞任した。日本選手権では決勝まで進んだが、負けた試合が最後の指揮になると腹を決めていた。準優勝を区切りに-、といった格好のいい理由ではなかった。

馬淵 社長が采配に口を出してきた。あの選手を使え、と。それが嫌だった。負けたら、監督の責任になる。どうせやるなら、自分の好きなようにやる。

創業者の社長は野球部長も兼任するほど、入れ込んでいた。トップの現場介入を受け入れる気は全くなかった。馬淵は子どもの頃から、「コト起こしの史郎」と呼ばれた。最初の就職も上司とのケンカで退社。

馬淵 俺が絡んだら、話がややこしくなる。人の言うことを聞かんかった。

劣悪な環境でチームを作り上げ、やり切った思いもあった。監督への未練はない。松山で運送会社に入り、再びサラリーマン生活を始めた。しかし、またもや野球の道に引き戻される。阿部企業の監督を辞任した翌年に、明徳義塾監督の竹内茂夫から誘われた。「1回、来いや。ノックでも手伝ってくれ」。竹内も、馬淵の恩師である田内逸明の教え子の1人だった。最初は断ったが、グラウンドに足を運ぶと、「野球をやるのも悪くない」と思った。87年5月、コーチに就任。社会科の教員免許も取得した。90年夏に6年連続高知大会で敗退した後、監督の座が回ってきた。馬淵には社会人野球で培った経験があった。初めての夏は91年。いきなり甲子園出場を果たす。

馬淵 自信がないことはなかった。他の人間が日本一になれるのに、俺ができんことはないやろと。思い上がった気持ちはあった。当時のビデオで自分の姿を見るのが恥ずかしいんよ。落ち着きがない。けたぐりでもええから、勝ってやろう。監督で勝ったと言われたい。

62歳の今では、苦笑交じりに振り返るが、当時は30代半ば。血気盛んだった。明徳義塾の名を上げる使命もあった。選手には猛練習を課した。

馬淵 当時は科学的トレーニングなんて、思ったこともない。長距離を走れば、根性の順番に帰ってくると言っていた。

ある日は練習試合に敗れ、グラウンドを110周走れと命じた。4時間半を要し、2人が救急車で運ばれた。太平洋に面した横浪半島の山の中。閉鎖された空間で、娯楽はない。お菓子もジュースも禁止。馬淵も寮に住み込んで、野球に没頭した。そして就任から2年連続で夏の甲子園切符を手にする。

92年、「松井の5敬遠」の夏だ。高校生離れしたスラッガーを相手に、真っ向勝負を避けた。ましてや1点を争う接戦。スタンドからは「勝負」のコールが湧き起こり、メガホンが投げ込まれた。3-2で競り勝ち、初戦を突破。くしくも都市対抗初戦と同じスコアだ。しかし、策がはまった社会人時代とは違い、猛烈なバッシングを受けた。

馬淵 勝ち負けにこだわってきたからこそ、高校野球はこれだけ発展したと思う。相手より1点でも多く取って、勝つことを目的にやると、野球規則の第1条に書いている。

敬遠策が間違いではないという考えは今も変わらない。ただし、時を経て、こう付け加える。

馬淵 今だったら、もう少し違う方法があると考えたかもしれない。社会問題になって…。俺の徳のなさなんや、と思った。徳がないから言われる。

信念に揺るぎはなかった。だが、馬淵を待っていたのは、冬の時代だった。(敬称略=つづく)【田口真一郎】

(2018年2月25日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)