「茨城出身だっぺ?」木内マジック、記者も体感

かってながら、私にとって木内幸男監督が「野球の父」だった。野球を始め、努力を継続出来たのは、木内さんのおかげと言っても過言ではない。

小3だった84年夏、取手二が清原、桑田擁するPL学園を決勝で破って全国制覇したことは鮮明な記憶だ。憧れがプロ野球選手ではなく、高校野球のお兄さんたちに変わった瞬間でもあった。茨城県のスターはKKコンビではなく、県勢初優勝を成し遂げたヒーローだった。私も「オレ、石田~」と言って、エース気取りでマウンドを譲らなかった思い出も残っている。「オレ、吉田~」と左利きなのに遊撃のポジションについた友人もいた。

小6の87年夏、木内監督が常総学院で夏の甲子園初采配となった大会は、私にとっても甲子園初観戦だった。祖父と2人で初めての1泊2日の旅でもあった。準々決勝の中京戦。当時1年生だった仁志敏久(現DeNA2軍監督)がランニングホームランを打つなどして勝利。翌日からはエース島田直也(現常総学院監督)の投球フォームをまねた。

常総学院が甲子園に出場すると、テレビの前にかぶりつく人生の始まりだった。野球のプレーはもちろんだが、私が一番楽しみだったのが、試合後のお立ち台監督インタビュー。茨城弁丸出しで笑う監督の姿や言葉。「今日は、どんな話をしてくれるのだろう」とワクワク。「8時だヨ! 全員集合」や「オレたちひょうきん族」以上に、私にとっての“ゴールデン番組”だった。

野球の練習や試合などで見られない時は、親にビデオ録画まで願った。試合時間が延びて最後まで録画出来なかったことがあると「何でだよ」。初めて親に反抗したのも木内監督のせい? だった。「あそこでインタビューしてみたいなあ」。スポーツ現場に憧れ、記者を目指したのは、間違いなく木内さんの存在があったからこそだ。

18年春のセンバツ、私は記者として甲子園“初出場”。「ここが、あの場所か」と目頭が熱くなった。木内監督なら「ごじゃっぺ(いいかげん、でたらめなどの茨城弁)じゃダメだぞ」と声をかけていただけるかなと背筋が伸びた瞬間でもあった。

03年夏、初めて1対1でお話しさせていただく機会があった。当時は販売局という部署の茨城県担当。記者ではなかった。高校野球取材を志願し、常総学院グラウンドの監督室で取材させていただいた。

名刺を出してあいさつすると「まあ、座れ。どっかで、会ったことあっぺ」。何度もテレビや球場で一方的には“会って”いるが、当然面識はない。いきなりの言葉で、目を丸くした私に次の一手。「茨城出身だっぺ? わかっちゃうんだよなあ、ガッハッハ」。私の言葉がなまっていたからか、憧れる視線が茨城球児そのものだったのか…。緊張した私の心も体もほぐす“木内マジック”を体感した。「茨城人は、まんじゅうだあ。食え、うんめえぞ」。塩大福を箱から取り出し、差し出していただいた少しカサカサな手の感触は今でも忘れない。

女子マネジャーがペットボトルの冷たいお茶を持ってきてくれたが、「まんじゅうには、温けえお茶だ」とみずからお茶を入れてくださった。帰り際、「持ってけ」。もう1つ、大福を取り出し、お土産まで。帰宅の途についた常磐線車内、緊張から解放されておなかがすいた。北千住駅で乗り換える際、ベンチに座ってパクリ。普段は冷たい飲み物しか買わないが、その日だけは自動販売機の「HOT」に迷わず手が伸びた。

本格的に記者となり、高校野球取材も数多く経験してきたが、木内監督への取材はあの日だけ。厳しさも兼ね備える監督だったと聞くが、私にとっては「憧れの父」に変わりはない。私には幼稚園年長の息子がいる。現在はサッカー、水泳、最近は剣道も始めた。小学校に入ったら「野球も…」は願い。木内監督と同じ「幸(ゆき)」の名前を1字受け継いでいるのだから。【鎌田直秀】