日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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ロッテグループ創業者で、千葉ロッテの総帥だった重光武雄はプロ野球オーナーとして、日本、韓国をまたいだ唯一の存在だった。

一代で巨大企業を築いた伝説の経営者が1月19日に逝去。ダイエー、ロッテ、オリックスで要職にあった瀬戸山隆三は、“平成のロッテ”を語る上で欠かせない一人だ。

04年2月、代表職に就くと、都内の本社12階で重光と膝詰めになったという。まず問いただされたのは「ダイエーの強さと集客力」についての答えだ。

当時のホークスは、200億円を超える売り上げとともにパ・リーグ覇権への地盤を固めつつあった。そこで重光は瀬戸山にロッテの赤字40億円を20億円に圧縮するよう指示した。

「2つの国にある球団を韓国、東京という言い方をされましたが、このままでは東京はもたないといって、バトンタッチせざるを得ないと話された」

かつて小売業NO・1企業ダイエーで修羅場をくぐった瀬戸山にとって「スーパー」「球団」の違いはあったが、“商人”として培われた独自発想からの営業力は抜群だった。彼の人脈、人柄も野球ビジネスに生かされることになる。

「重光さんは非常に事業を広げるのが好きで、グループのバックアップに頼った経営は絶対にダメという方でした。一方でアイデアマン。劇団四季のチケットシステムもリサーチし、球場に入ったビール会社3社を1社に絞った方が売り上げが上がるのでは、といわれて調査したこともある」

千葉の自治体との連携から地元企業からの協賛、後援会、ファンクラブ確立など、球団の営業努力が実を結んでいく。チーム強化が成功し、05年にバレンタイン監督が金田正一監督以来、31年ぶりのリーグ優勝、日本一を遂げる。

監督が西村徳文に代わった10年は3位からの下克上で日本一達成。当時は2週間に1度のオーナー報告会が定例だった。瀬戸山は赤字が20億円弱になった報告に重光を訪ねている。

「それじゃあダメだ、赤字は10億円までにしてくれとおっしゃった。ぼくはそれは難しいですと答えたが重光さんは時代が違う、来年は10億円を切れとの一点張りでした。売り上げを伸ばすのは手を尽くしたし、もう支出を減らすしかないと思ったわけです」

翌11年、ロッテは主力サブローの巨人へのトレード移籍に踏み切った。赤字圧縮の代償。ファンから猛反発にあった瀬戸山はシーズン終盤に辞意を伝える。「経営に厳しい怪物でした」。名物フロントマンは日本球界への功労をしのんだ。