ドラ1―。
その年のドラフト会議でわずか12人の選ばれた選手たち。多くの期待、重圧がかかる立場で、常に肩書を背負いながら、生きていく。
09年ドラフト1位で春日部共栄(埼玉)から日本ハムへ入団した中村勝投手(30)は、19年オフに戦力外通告を受け、オーストラリア経由でメキシコに渡った。【木下大輔】
(2回目以降の連載は無料会員登録で読むことができます)
◆中村勝(なかむら・まさる)1991年(平3)12月11日、埼玉・春日部市生まれ。春日部共栄からドラフト1位で日本ハムに入団。14年に8勝を挙げるなど活躍も、19年限りで戦力外通告を受けた。NPB通算15勝17敗(60登板)。高校時代は投球フォームと甘いマスクが似ていることから「埼玉のダルビッシュ」と呼ばれた。
21年11月13日、吉報が届いた。
中村勝がメキシカンリーグの最優秀投手に選出された。
新球団のグアダラハラ・マリアッチスで5月の開幕から9試合に登板。リーグ最多勝となる8勝0敗、防御率3・25と堂々たる成績を残した。
戦力外となって2年目の復活劇。
「体が元気なうちに、その時しか出来ないことを大切にしたかった」
NPB復帰を、最大目標とはしていなかった。
「もちろん話があれば、ありがたいですけど」との思いもあるが、1度きりの人生。今しかできないことを、追い求めることにした。
起点は19年10月1日。10年間在籍した球団から来季の契約を結ばないことを通達されてから。
「若いうちに海外での生活や語学に触れたりすることに少し興味があった」。
12球団合同トライアウトにも参加したが、NPB球団からのオファーはなかった。
ならば、興味のある道へ。
英語を学べて野球もできる環境を探して、たどり着いたのがオーストラリア。戦力外から約半年後の20年3月、ブリスベンへ向かった。
◆入国制限ギリギリの渡豪、ロックダウン
1年間有効のビザ、ワーキングホリデーを利用した。
明確な目的を定めていた。今しかできないこと。
現地で語学学校に通いながら「最終的にはABLに出て、帰ってこようと思っていた」。
ABLとは、例年11月から2月まで開催されるオーストラリアン・ベースボールリーグの略称。そこでプレーするため、出国時期も4月頃と逆算して想定したが、コロナ禍が全世界へ広がろうとしていた。
「急いで準備して行った」と入国制限がかかる直前、ギリギリのタイミングで渡豪となった。
現地では日本人が大家のシェアハウスに入居した。
語学学校へ入学し、アマチュアチームのサーファーズ・パラダイス・ベースボールクラブに入団。すぐにコロナ禍によるロックダウンが始まった。
「あっちのロックダウンは本当に厳しいので、普通に用もなく外を歩いていたら罰金が課せられるところもあった。最低限の買い物以外は出てはいけないみたいになって。最初の3カ月くらいはずっと家にいて、ちょっとだけ運動するのはOKという感じでしたね」。
最低限のトレーニングは継続しながら、20年7月頃にはロックダウンも解除。語学学校も、アマチームでの活動も再開した。
「日本で言う草野球に近い感じです。みんな午前中に来て試合をやって。サーファーズはオーストラリアにおいてのウインターリーグとはなっているんですけど、野球をやる環境がそこにあるくらいのレベルです」。
人数が足りない日があれば、野手としても試合に出場した。ホームランも放った。
「公式戦とか大会で僕は打ったことがなかったので、試合で打つのは初めてでした。ホームランはやっぱ、気持ちよかったですね」。
もちろん投手としても奮闘。チームはリーグで優勝した。
活躍がABLの各チームから注目を集め、いくつかオファーが舞い込んだ。
「当時は外国人が(オーストラリアに簡単に)入れない状況で貴重だったので、たぶんそれで、契約して頂けた感じでしたね」。
ブリスベンが本拠地のバンディッツと20年9月に契約した。(連載2につづく)
【連載2「一緒にやらないか」オファーの主は元同僚 続きは会員登録(無料)で読むことができます】>>
【連載3 メキシコで気付いた海外選手の球速の秘密 続きは会員登録(無料)で読むことができます】>>
【連載4 まさかのコロナ感染、異国での隔離生活 続きは会員登録(無料)で読むことができます】>>