日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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フランスの知人からいただく土産は、いつもしゃれている。仏マクロン大統領夫人ブリジットの実家は、北フランス・アミアンで老舗のお菓子屋を営んでいる。その有名店のマカロンがギフトだった。

欧州はウクライナ侵攻で不安定情勢が続き、マクロンが訪中して平和を主張するなど慌ただしい。マクロンか? マカロンか? なんだかややこしいが、平穏を願ってマカロンを口にする。

阪神の外国人投手で活躍したジーン・バッキーが故郷ルイジアナ州で「スポーツ殿堂」入りする可能性が浮上している。バッキーの先祖は、フランス系移民だった。姓の「Bacque」(バッケェ)といった発音もフレンチっぽい。

フランスがルーツのバッキーは1962年に来日した。メジャー経験はなかった。エンゼルス3Aのハワイ・アイランダーズを解雇された末に、日本にたどり着く。阪神で7年、近鉄に1年在籍した。

日本通算100勝(80敗)を記録。日本を去った後は、ルイジアナ州ラファイエットへと移り住んだ。中学生を指導する数学教師に転身し、広大な牧場も経営していた。19年9月19日に地元の病院で死去した。

今回、殿堂入り候補に挙がったのは、当時の教え子たちが、“恩師”の功績をたたえる声を上げて活動を始めたのがきっかけだった。チームメートだった吉田義男も英訳した推薦文に、自らのサインを添えた。

来日当初のバッキーの月給は約3万円で、新婚で看護師だった夫人のドリスと甲子園球場後方のアパートで暮らした。吉田は「日本での生活は苦労しただろうが、日本で成功したい一心だったと思う」となつかしんだ。

「球団から用意された文化住宅が狭すぎるから2つの部屋をカベを破ってつなげたんです。東京の遠征先の清水旅館では浴衣を着ての雑魚寝だったし、アメリカとの環境の違いに戸惑ったでしょうが、陽気にふるまう男で日本に溶け込もうと必死でした」

入団テストに合格したバッキーは、62年は0勝、2年目が8勝、東京五輪イヤーだった3年目の64年は最多29勝、防御率1位(1・89)で優勝に貢献し、外国人初の沢村賞も受賞する。

65年6月28日の巨人戦(甲子園)、外国人投手として初のノーヒットノーランも達成した。近鉄に移籍した69年が0勝で椎間板ヘルニアもあって引退。名助っ人は故郷で82年間の生涯を閉じた。

吉田は「阪神球団で史上最強の助っ人と認められている投手です」と付け加えた紹介メッセージを送付した。タテジマを支えたレジェンドの功績が海の向こうで脚光を浴びる。(敬称略)