広島球団初の名球会投手で、球団最多の通算213勝を挙げた北別府学(きたべっぷ・まなぶ)さんが16日、広島市内の病院で亡くなった。65歳だった。

「精密機械」と評された制球力を武器に数多くのタイトルを獲得。エースとして広島黄金期を支えた。94年の現役引退後は評論家などで活動したが、20年に、2年前に血液がんの一種「成人T細胞白血病」と診断されたことを公表。闘病生活を続けていた。20世紀最後の200勝投手が逝った。

   ◇   ◇   ◇

広島の黄金期のエース北別府さんが、天国へと旅立った。20年に血液がんの一種である成人T細胞白血病を公表してからは病気と闘い続けた。当時ブログでは「解説者として、カープの日本一を見届けるために必ずや復活します」と記し、広美夫人が代わって近況を投稿していた。最後の投稿は「もうすぐ父の日だよ、がんばれ!!」と題した12日だった。父の日のプレゼントとして、退院したときに座ってもらうソファの写真とともに、家族の思いがつづられていた。

鹿児島出身で、宮崎・都城農から広島に75年ドラフト1位で入団した右腕は、早くからその才能を示した。1年目から白星を挙げると、3年目の78年から88年まで11年連続で2桁勝利をマーク。この間、4度のリーグ優勝、球団初含む3度の日本一に導いた。91年には3年ぶりの2桁、11勝を挙げ、再びリーグ優勝に貢献した。

「精密機械」と言われた制球力だけでなく、毎年のように30試合以上を投げる強さを兼ね備えた。打者に向かっていく闘争心と、勝利への渇望は後ろを守る野手たちに伝わるほどだった。2度の沢村賞をはじめ、リーグMVP、最多勝などのタイトルを獲得。球団最多の213勝を挙げ、球団初の名球会投手となった。名実ともに広島の大エースとなり、94年にユニホームを脱いだ。現役引退後、広島で01年から04年まで投手コーチを務め、12年には野球殿堂入りを果たした。

背番号20は、広島にとって偉大な番号となった。松田球団オーナーは「重みもあるし、思いも継いでほしいと思っている。ふさわしい選手にずっと渡してきている。抑えがつけることもあるけど、エースナンバー。主力、中心になる選手として位置づけている」と思いを語った。しばらく空き番号となり、03年から永川(現2軍投手コーチ)がつけ、守護神として球団最多の165セーブを積み重ねた。21年からは栗林が受け継ぎ、1年目から2年続けて30セーブを記録。東京五輪やWBCの日本代表に選ばれるなど、新たな歴史を刻もうとしている。高い投球技術に加え、闘争心。広島投手陣の大黒柱となる背番号20の思いは、継承されている。

◆北別府学(きたべっぷ・まなぶ)1957年(昭32)7月12日生まれ、鹿児島県出身。都城農から75年ドラフト1位で広島入り。「精密機械」と評された抜群のコントロールで広島のエースとして君臨。79年にはチーム最多の17勝を挙げ、初の日本一に貢献した。82年には20勝を挙げ初の最多勝。86年には最多勝と最優秀防御率の2冠で、MVPを受賞した。92年7月16日中日戦で、球団生え抜き初の200勝に到達。このオフの契約交渉で球団初の1億円プレーヤーに。94年に引退した。通算213勝は広島最多。01~04年に広島コーチ。12年野球殿堂入り。現役時代は181センチ、85キロ。右投げ右打ち。