政府は27日、20年度の文化功労者を選び、発表した。漫才師西川きよし(74)は、漫才の分野で初めて受賞した。

「漫才は昔『つなぎ芸』と言われていて、次の芸人さんが入ってくるまで、お客さんを退屈させないための間(ま)をつなぐ芸だと先輩から聞いていた。大衆芸能という部門の中で、演芸、漫才も加えてもらえたのが、本当にうれしい」

感無量といった表情で、喜びを語った。

故横山やすしさんと組んだ「やすし・きよし」が、上方伝統となった「しゃべくり漫才」を隆盛へと導いた。80年代漫才ブームにのり、漫才を「大阪を象徴する芸」のひとつへと育て上げたのが、ほかならぬ「やすきよ漫才」だった。

きよしは中学卒業後、17歳で吉本新喜劇に入団。それまで「天才少年漫才師」と呼ばれながらも、幾度となくコンビ別れを繰り返していたやすしさんから、何度も結成を誘われた。

「20回以上断った」と振り返るが、熱意に押されて66年にコンビを組んだ。背を押したのは、吉本新喜劇の看板女優から身を引き、結婚し、きよしを支えた妻の西川ヘレン。コンビ結成後は、稽古嫌いのやすしさんを説きふせ、息をあわせていった。スピード感あふれるしゃべり口で、唯一無二の芸風を築き上げた。

「今回、文化功労者として名前をあげてもらったのはお客様のおかげ。そして、やすしさんのおかげだと思う。感謝しかない。僕の中ではやすしさんはまだ生きています」

やすしさんは96年に亡くなった。晩年は漫才をすることもなかった。ただ、以前、占い師に「やすしさんは全国の仕事の現場に着いてきていますよと言われた」とも吐露。いまだ毎日、朝と夜に仏壇に手を合わせ、やすしさんと話す。

「よう頑張ったな。『俺がいる間はもろてないのに、1人になったらもろた』『おるときに2人でもらいたかったな』と言われる気がします」

やすしさんを思うと、目を潤ませ、ヘレンに言及すると、さらにこらえきれず。今度は、大きな目から涙があふれた。もともと、結婚当初は、無名のきよしと、看板女優ヘレンの結婚に、吉本興業も猛反対した。

「とにかく1人の女性が、こんなにも1人の男に一生かけて、自分の人生をかけて尽くせるもんかなと内心思っている」

ヘレンに吉報を伝えると「普通の喜びではなかった。目と目が合った瞬間に、号泣に近い…そんな状態でした」と振り返った。

食事に留意し、運動も心がけ、健康維持に努めつつ、漫談を続ける。

「舞台は素晴らしい所。その上で死にたいとやすしさんと言っていた。会社があかんと言うまで、80歳くらいまでは出たい」

力強くこう口にすると、写真撮影に応じながら「小さなことからコツコツと…がんばってきてよかった」と、おなじみのフレーズで会見を締めた。