歌手山田太郎(75、本名・西川賢)が、歌手デビュー60周年を迎えた。代表曲はなんと言っても「新聞少年」(65年)。病弱な母を助けるために、早朝から新聞配達するけなげで明るい少年の歌は、高度経済成長のただ中で、国民の共感を得て大ヒット。新聞各社の発行部数増にも貢献した。現代では新聞少年の姿はほとんど見られなくなったが、今も「新聞少年の山田太郎」と呼ばれる。同曲の誕生秘話と、新聞への思いなどを聞いた。【笹森文彦】

今月15日は「新聞少年の日」である。日本新聞協会が1962年(昭37)10月に設定した。主な目的は(1)当時新聞配達の主力だった少年たちの労をねぎらう(2)新聞少年が「ニュースの最終ランナー」であることを広く一般に理解してもらう、だった。

「新聞少年」は、山田16歳の65年5月に発売された。「僕のアダナを知ってるかい 朝刊太郎と言うんだぜ」で始まる。父を亡くし、病弱な母のために、新聞を小脇に抱え、眠い目をこすって新聞を配る。つらいけど、いつか大きな夢をつかんでやる、と歌う。

日本経済が戦後復興から急成長期に入り、家計を助けるための新聞少年が減少する中での発売だった。時代に逆行するかのようなストーリーだったが、そのけなげさと明るさが、多くの日本人の琴線に触れて、大ヒットした。

どこの公演会場も満員だった。「今日も朝もやの町に1人の少年が走って行きました。お待ちどおさまです。新聞少年、山田太郎さんです」。司会・玉置宏氏の名調子で、山田が登場すると、割れんばかりの大歓声が湧き起こった。

山田 どこでも、すごかったですよ。震えちゃって、(歌詞を)間違えそうになった。僕の11作目の新曲でした。それまでヒットがなくて、これがダメなら、歌手を辞めろとオヤジに言われていました。

オヤジとは芸能事務所「新栄プロダクション」の西川幸男氏(当時40)。浪曲の興行師から歌謡界に進出し、村田英雄、北島三郎、五月みどり、大月みやこらが所属していた。山田はその父に内緒で、日本クラウンの新人オーディションを受け合格。父は猛反対したが、中学3年生だった63年に「清らかな青春」でデビューした。

山田 山田太郎の芸名はオヤジが付けてくれた。レコード会社は大反対しましたが、「日本には山があって田んぼがあって、名前と言えば花子か太郎だろう。銀行に行けば見本で山田太郎と書いてある。見本でいいんだよ。それが売れる秘訣(ひけつ)だ」って。

御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)の人気が急上昇していた。山田は同じ土俵ではなく、「清く明るく美しく」「明日を信じよう」など働く少年をテーマにした曲を歌った。若さとさわやかな風貌で人気はあったが、ヒットにはつながらず、父から最後通告を突きつけられたのだ。

山田 俺にそう言った以上、オヤジも悩んでいたんですね、眠れない日が続いた。寝付けずにいたある朝、ポンと玄関に新聞配達の少年が新聞を入れた。外を見ると、ジーパンに格子柄のシャツを着て、新聞を抱えていた。それを見て、ひらめいたんです。

西川氏はすぐに作詞家(八反ふじを氏)を呼んだ。「太郎の最後の勝負だ。宮城まり子が歌った『ガード下の靴みがき』のような、親がいなくても頑張っている子供たちの歌をつくれ! タイトルは『新聞少年』だ」と指示した。

山田 ああ、俺は終わったって(笑い)、本当にそう思った。周りは格好いいタイトルの歌ばかりなのに「新聞少年」ですから。

レコーディングで歌詞の内容から暗く歌った。すると父に「バカヤロウ! 新聞少年は中学生とかのアルバイトなんだ。夢を持って頑張っているんだ。その姿をお前の顔で、明るく歌うんだ。笑って歌うんだ」と厳しく言われた。

山田 今もテレビなどで歌う時、もう年だしと思いますが、皆さんのこの歌へのイメージがありますから、明るく歌っています。

当時、全国の新聞社から新聞少年の慰問公演を数多く依頼された。かつてあった「貧困家庭の少年たち」というイメージが、けなげで明るい肯定的なものとして一般に受け入れられた。新聞少年は増え、新聞社は高度経済成長を背景にした部数増に対応できた。

山田 時代は変わりました。もう新聞少年は見かけない。ただ私もそうですが、昭和の時代の人は朝配達されてくる新聞が楽しみなんです。(ポストに入る)音が心地いいんです。まだ昭和の時代は消えてはいない。かっこいいシューズを履いた、ファッショナブルな新聞少年が出てきてもいいんじゃないかな。日本人の生活の中にあった原風景をなくしたくない。これからも歌い続けます。

◆山田太郎(やまだ・たろう)本名・西川賢。1948年(昭23)8月24日、東京都生まれ。NHK紅白歌合戦は65年から3年連続出場。俳優としても活躍し、TBS系時代劇「彦左と一心太助」(69年)は好評を得た。著書に「修羅の時 青春の時-昭和・歌謡界の親方 西川幸男」(集英社)がある。史上最年少の20歳で馬主資格を取得。北海道に競走馬の生産牧場ウエスタンファームを持つオーナーブリーダーである。現在、日本馬主協会連合会の会長を務める。父西川幸男氏と、離婚した歌手五月みどりとの間に、異母弟・西川哲(プロゴルファー)がいる。血液型O。

■「新聞少年」24万人→500人に

日本新聞協会によると、63年2月に新聞販売店の従業員実態調査を初めて行った。その結果、全従業員32万2686人のうち、満12歳以上18歳未満の新聞少年は23万5012人(約72・8%)。うち3分の2が中学生だった。ちなみに22年の新聞少年は552人だった。「新聞少年の日」は毎年10月15日から1週間開催される新聞週間の日曜日に設定される。今年は15日が日曜日。91年には、戸別配達の重要性をアピールするため、同日を「新聞配達の日」にもした。東京・有栖川宮記念公園内をはじめ、岡山、京都、横浜など全国に新聞少年の像がある。

■「歌手で還暦、会社の原点」

60周年記念曲「無法松の一生~歌謡浪曲~/競馬人生~令和バージョン~」を、自身の誕生日の8月24日に発売した。「無法松-」は村田英雄さんのデビュー曲。村田さんは58年創業の「新栄プロダクション」の第1号タレントで、浪曲師の酒井雲坊から改名し、歌謡界に転身した。その後、戦後初のミリオンセラーとなる「王将」(61年)で国民的歌手となった。

山田は、デビュー前の夏休みに村田さんの地方巡業に同行。歌唱などを学んだという。85年に父から家業を受け継ぎ、歌手兼社長(本名名義)となった。同曲を60周年記念曲に選んだ理由について「歌手として還暦を迎え、うちの会社の原点の作品を歌いたかった」と話した。

「競馬人生-」は、75年に大月みやこが歌った作品のニューバージョン。馬主でもある山田らしい、ユニークな作品である。