日本サッカー史に刻まれる転換点「ドーハの悲劇」から30年。節目の28日に合わせ、当時ピッチ上で最年少25歳のMFだった日本代表の森保一監督(55)が単独インタビューに応じた。W杯初出場に迫りながら夢破れた「これ以上ない悲しみ」を経験し、監督となって迎えた22年W杯カタール大会で「歓喜」に更新。現役時代に見た悪夢を血肉に変え、次回26年W杯北中米大会で「ワンチャン」優勝を狙う。「ドーハの悲劇30年~歓喜からW杯優勝へ~」と題して3回連載する。【取材・構成=岡崎悠利、佐藤成、盧載鎭】

夢の舞台へ、まだ何か足りなかった日から、ちょうど30年。森保監督は、選手間でよくかわされている言葉を借りて未来を描いた。

「ワンチャン、あるかなと思っているんです」

「One Chance」を略した先に見据えるのは日本のW杯初優勝。しかも3年後という。若者の間で「ひょっとしたら」程度の意味合いで使われていたが、今や、いちるの望み以上に「いける」可能性を持つ。30年前はない言葉を用い「まだまだ本命国ではないですけどチャンスはある」と充実感をにじませる。

選手で悲劇を味わったドーハを、監督で歓喜の地に塗り替えた。カタール大会でW杯7度目の出場にして初の逆転勝ちをドイツから収め、スペイン戦の後半ロスタイムには興奮状態で指笛を鳴らしていた。1点リード。極限の「追いつかれれば終わり」は93年10月28日と同じだった。オフト監督もまた、同じ時間帯に指笛を鳴らし、選手たちに気力の限りの警戒を促した。

「テンパっていた」と明かす指揮官は「これが93年と22年の違いだな」と感じていた。30年前は、くいを打たれたように足が止まり「正しい判断ができなくなって後ろ向きの守備になった」。昨年は、正念場でMF遠藤がDF冨安が、的確な陣地にクリアして守備ラインを押し上げた。「究極の緊張感。夢や目標をつかみ取るかどうかの状況で、冷静でいた」。進化を優勝経験国の連破で示し、会見で言った。「選手たちが前向きにボールを奪いに行った姿を見て、時代は変わったんだなと。新しい時代のプレーをしてくれた」と。

日本の分岐点。当時の記憶は、ほぼ残っていない。失点につながるクロスを上げた選手に寄せ切れず、頭上を越えたボールをスローモーションで見送った。気付けば、宿舎。ぼうぜんとし、涙がこぼれた。「サッカー人生で、これ以上ないと思える悲しい経験」として深く心に刻まれてきた。

選手の経験こそ、欧州組が占める現代の方が豊富だが、悲劇から得た教訓は今の代表にはないものだ。「消極的より積極的」。7大会連続が懸かった22年3月のW杯アジア最終予選オーストラリア戦。0-0の後半39分にMF三笘を投入した。負ければ出場圏外の組3位に沈むリスクを抱えた中、敵地でアタッカーを送り込む攻めの采配だった。

引き分けで終え、次のホームでベトナムを仕留める方が安全だった。「夢や目標が目の前にきて気持ちが守りに入りそうな時、もう1歩を踏み出す。ドーハの経験が、めちゃめちゃ生きています」。三笘は2得点し、W杯への扉を開いた。

あのイラク戦で着ていた背番号17のユニホームは広島の実家に保管している。「チャリティーに出して売り上げを育成に回したいくらい」こだわりはない。「選手だった自分は、もういなくてもいい。監督としてチームを成長させていくことだけ考えたい」からだ。

48チーム制になる26年大会は、まだ勝ったことがないトーナメントが1試合増え、道は険しくなる。日本協会は30年までに4強、50年までに優勝を掲げるが、本気で思っている。「最短で26年も可能かな」と。9月はドイツを敵地で4-1の返り討ち。最高峰の欧州CLで研さんを積む選手も増えた。30年前は想像できなかったが、常連国に長足の進歩を遂げた日本なら3年後「ワンチャン」ある。

◆ドーハの悲劇 1993年(平5)10月28日、カタールの首都で行われた94年W杯米国大会アジア最終予選の第5戦(最終)イラク戦。勝てば悲願のW杯初出場が決まる中、前半5分にFWカズが先制。暑さ、深い芝でパスを回せない状況の1-1で迎えた後半24分、FW中山のゴールで勝ち越したが、ロスタイムに入って17秒後、相手の右ショートCKから失点して2-2とされ、得失点差で韓国に上回られて出場権を逃した。日本時間の午後10時15分キックオフと遅かったが、テレビ東京史上最高視聴率48・1%を記録した。