FIFAワールドカップ(W杯)北中米大会(6月11日開幕)へ、森保一監督(57)率いる日本代表に強力な助っ人が加わった。4月16日にコーチ就任が発表された中村俊輔氏(47)。このほど取材に応じ、世界一を目指すチームにその経験を惜しみなく伝え、チームの勝つ確率を1%でも上げることを誓った。【取材・構成=佐藤成】
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代表エンブレムがよく似合う。1998年の初選出から2010年の代表引退まで長く身につけた代表ジャージーを羽織った中村コーチが会場に現れる。「魔法の左足」を武器に2度の大舞台出場を誇るファンタジスタが、森保ジャパン入閣の経緯をこう明かした。
「本格的にコーチとして入って、一緒に戦ってほしい、力を貸してほしいという話が正式な形では、イングランド戦が終わった後のタイミングです」
解説者として英国遠征に同行していた中村コーチは、イングランド戦後に欧州に残った森保監督と食事の機会があり、そこでコーチ就任のイメージを深めた。当初は前のめりではなかったが、改めて正式に協会からオファーが来て、引き受ける決断をした。
「自分が何ができて、還元できるのか。森保さんと少し話しながら、こういうことを期待してるとか、こういう力を貸してほしいとか、コミュニケーションができたので、微々たる力ですけども、何か代表のためにできないかというような心境に変わっていきましたね」
22年限りで現役引退すると、横浜FCでコーチに。3年間務めて昨季限りで退任した。しばらく離れた代表をどうみていたのか。
「自信があふれてるなという感じはします。僕らの時よりは、基準が高くなってると思いましたね。あとは代表の価値が高いんだなっていうのは感じました。代表の価値が下がると選手のいろんなところに、響くので、それは非常に練習からも感じました」
「代表の価値」。それは中村コーチが現役時代に最も意識していたことだった。
「代表が一番大事なものというか、価値があるものだと思ってたんで、クラブでいいプレーするのも代表のためだし。それはやっぱり、ラモス(瑠偉)さんだったり、カズシさん(木村和司)、カズさん(三浦知良)、そういう先代の方々が作り上げたものを、次につなげなきゃという思いでプレーしていた」
代表活動の中でもW杯は重要な位置づけだった。そこでの躍進が「代表の価値」を高めるものだと認識していた。自身は02年日韓大会は落選。06年ドイツ大会は主軸として1ゴールを挙げるなどしたがチームは1次リーグ敗退の憂き目に遭った。10年南アフリカ大会は直前にスタメン落ちしたが、献身的な姿勢が一体感を醸成し、チームはベスト16に進出した。
「W杯がうまくいかなかったからサッカー人生があまりいいものではなかったとはならなかった。あくまで通過点ですけど、その通過の仕方がどうだったかが大事。だから積み上げた準備が大事だったなと。それでもし、結果がうまくいかなかったとしても、次に(心に)絶対に残る」
代表にはすでに充実したスタッフ陣がそろう。中村コーチは全体のカバーとともに、攻撃を担う名波浩コーチ、前田遼一コーチにアイデアを伝える役割を担う。
「(コーチ陣が)すごくリスペクトしながらしてるなというのはすごく感じます。自分だけの担当で自分のところで結果を残そうではなくて、代表のために各コーチが隣のコーチ、分析の人ぐらいまで意識しながら仕事をされてるなと。そこはやっぱり質が高い」
森保監督はメディア上で中村コーチに「PK担当」を任命する意向を示していた。本人はまだ正式に通達されたわけではないというが、準備は進めている。15日のメンバー発表までは選手選考がメインだったため、落ち着いたタイミングで森保監督へ自らアイデアを伝える。練習も含めてPKを蹴ったデータが残っている分を取り寄せ、さまざまなアプローチをするつもりだ。
「あまりPKの方で選手に頭いっぱいにさせたくないですし、そこら辺のところで、トレーニングの時も、いつごろからやるかとか、何がベストな形かなっていうのも含めて、自分の中では案がある。それを森保さんに提案して、判断していただく」
まだ解説者だった英国遠征では選手たちが目を輝かせてあいさつに訪れた。欧州での実績、その経験値は日本サッカー界の財産だ。個々の選手への働きかけも含めて世界一へのラストピースとなるべく、奮闘する。
◆中村俊輔コーチの現役時代のPK 日本代表では国際Aマッチ通算24得点のうち、PKで歴代3位の6ゴール。三浦知良の9点、本田圭佑の8点に次ぐ。PK戦は04年7月31日のアジア杯準々決勝ヨルダン戦で1番手を任され、芝に足をとられて枠を外したが、オシム監督時代の07年に3度あったPK戦はいずれも1人目で成功した。J1リーグ戦の通算73得点のうちPKは7点、直接FKゴールが歴代最多の24点。
◆中村俊輔(なかむら・しゅんすけ)1978年(昭53)6月24日、横浜市生まれ。横浜の下部組織、桐光学園から97年に横浜M(現横浜)に入団。02年にレッジーナ(イタリア)-セルティック(スコットランド)-エスパニョール(スペイン)を経て、10年に横浜に復帰。磐田から横浜FCと移り、22年限りで現役引退。日本代表国際Aマッチ通算98試合24得点。178センチ、71キロ。

