競泳男子の瀬戸大也(27=TEAM DAIYA)が海外を転戦している。東京五輪を終えて、多くのアスリートがひと息つく中、単身で日本を飛び出した。金メダル候補だった東京で痛恨のメダルなし。長年のライバルだった萩野公介(27)が引退する中で、休みなく泳ぎ続ける。日本競泳界4人目のプロスイマーを宣言した瀬戸の変化に迫った。
■まさかの波乱
力を失った目で電光掲示板を見ていた。7月24日、東京五輪400メートル個人メドレー予選最終組。瀬戸は大会最初のレースで同組5着、全体9位で敗退。世界ランキング1位が決勝進出を逃した。取材エリアで予選11位だった20歳井狩裕貴が「え、瀬戸さん、落ちたんですか。まじかー」と絶句。競技初日の波乱だった。
「自分でもちょっと信じられない。読み違えた」
スタートから順調だった。得意のバタフライからトップ。背泳ぎ、平泳ぎを終えて2番手に体ひとつリードを保った。しかしラスト50メートルで風向きが変わった。最後の自由形で海外勢が猛然とスパート。プールの真ん中、4レーンの瀬戸は左右2人ずつに並ばれ、抜かれた。
「追いかけなくてもいいやと思ったが、甘かった」。
瀬戸の4分10秒52は、自己ベストよりも4秒43も遅かった。だが何よりも決勝進出ラインの8位が4分10秒20。これは19年世界選手権銅メダル相当のタイムだった。レース直後の発言もあり、甘い見立てのために、自国開催の五輪で金メダルのチャンスをふいにしたと捉えられた。
■敗れた真相 4つの敗因
東京五輪から3カ月後の10月下旬、瀬戸が重い口を開いた。五輪の400メートル個人メドレー予選落ちについて「危険スイッチというか『レッドゾーンだぞ』とビビッとくる自分の感覚がなかった」。痛恨のレースには、4つの敗因があった。
<1>見えなかった2レーン
4人に抜かれたが「左側の2レーン(イタリア選手)は見えてなかった」。自由形のスパートは水しぶきが激しく、相手の姿が見えにくい。また右側に顔を上げて呼吸するため左側は死角になりやすい。
<2>16年リオデジャネイロ五輪の記憶
リオ五輪予選では自己ベスト4分8秒47を出し、全体2位で通過した。しかし翌日の決勝は疲労が抜けずに後半に失速して銅メダル止まり。その苦い経験が頭の中に残っていた。
<3>予選の記録アップ
米国のテレビ中継に合わせて、予選は午後で、翌日の午前が決勝だった。半日後の決勝に照準を合わせるため、予選のタイムは大幅に上がらないと予想。実際、短いレース間隔が響いて決勝8人中7人が予選からタイムを落とした。「余力を残して決勝」は妥当な戦略だったが、体が動きやすい夜の予選で、ライバルたちの通過タイムが想定以上に上がった。
<4>レース感覚の欠如
コロナ禍で20年春の五輪延期から国内試合は軒並み中止。昨秋の女性問題で2カ月半の活動停止処分も受けた。もともとレースを重ねて調子を上げるタイプ。
処分については「自分の責任」としているが、5カ月間レースに出なかった影響は大きかった。
■冷静さ欠いたSNS上の炎上
女性問題の影響もあって、SNS上で批判の声が高まった。ポジティブ思考が身上、普段はほとんどSNSの声を気にしない。しかし勝負の東京五輪で「余力を残して決勝」という戦略がやり玉に挙がり、黙っていられなくなった。大会2レース目の200メートルバタフライ予選の後で「ネットでいろいろ言われてめっちゃむかつくけど、戦っているのは自分」。ずっと世界大会でメダルを取り続けてきた自負もあった。泳いでいるのは自分だ-。その発言は、火に油を注ぐものになった。
柄にもなく、意地になった。続く200メートルバタフライ準決勝も全体11位で敗退。「難しいなと思う。めちゃくちゃ流れが悪い。予選よりも頑張ったつもりでもタイムがともなっていない」とうなだれた。負の連鎖は止まらない。最後の種目となった200メートル個人メドレーは予選で全体16位とぎりぎりで通過。「普通に落ちた、と思った」と力なく笑った。萩野と泳いだ決勝は表彰台まで0秒05差の4位。金、銀、金も期待された3種目でメダルなしに終わった。
■救われた妻の言葉
「今、思うとSNSとかに敏感になっていた。冷静じゃなかったし、イライラしていた。それは必要なかった」。
失意の帰宅。妻で元飛び込み選手の優佳さんが待っていた。昨秋の女性問題を謝罪した時に「できるところはサポートする」と言ってくれた妻に、メダルを持って帰ることはできなかった。いたたまれない気持ちで戻ると、優佳さんに「お帰りー。めっちゃ暇になったやん」と出迎えられた。「さらっと。なんか普通の試合から帰ってきたみたいな感じでした。元アスリートだから気持ちをわかってくれたのかな」。ざらついた心がふっと軽くなった。
13年9月の開催決定から大きな目標だった東京五輪は終わった。ひと区切りついて家族旅行を考えていたが、緊急事態宣言下でそれもかなわない。アスリートフードマイスターの資格を持つ妻の手料理を食べて、自宅で過ごした。そして2日休んだだけですぐに練習を再開した。一時は東京五輪後の進退を保留していたが「これが最後じゃない。パリまでの3年間は非常に苦しい生活になると思うが、食らいついて生きていきたい」と動きだした。
■退路を断った新たな決断
なぜ勝てなかったのか。大会後、大きな決断を下した。日本水連に預けていた肖像権を、自己管理する届け出を提出した。退路を断って、パリ五輪に向かう決意表明だった。
10月23日、日本水連理事会。瀬戸の肖像権除外認定が認められた。北島康介、萩野公介、渡辺一平に続く4人目のプロスイマー。日本水連の補助があった遠征、合宿の費用について、原則として自費となる代わりに、商業活動の制限が緩和される。
「今までいろんなところで日本水連にサポートしてもらいました。今後はしっかりと自立して自分の強化は自分でやるという覚悟を持っていく。自分の分(強化費)は他の選手に回していただきたい。ジュニア選手の可能性も広がる」。
活動費はトップ選手で年間800万円近くになる場合がある。自費で賄うことになるが、女性問題で昨年9月にANAとの契約を解除されてから、メインとなる所属スポンサーはついていない。同時期に1000万円単位の強化費が支給される日本オリンピック委員会(JOC)の顔である「シンボルアスリート」も辞退。大幅な収入減だが、プロとしての決意は強い。
■賞金で稼ぐ
近年は競泳国際リーグ(ISL)など海外で賞金大会が増える傾向にある。数多くのレースに出て強化する瀬戸にとって、賞金で競技を続ける環境が整いつつあった。16年にはW杯で海外を転戦して賞金約1000万円を得ている。瀬戸の実力ならば、賞金で年間800万円を稼ぐことは不可能ではない。ただそれは活躍し続けることが大前提だ。
「きれいごとじゃなくて、しっかりと賞金レースで結果を出して競技レベルを上げていきたい。ISLで感じたのは米国は代表クラスでもいろんなことを自分でしている。自分が日本にいると、いろんな方が手を差し伸べてくださる。ありがたいことですが、そこに甘えている部分もある」。
■裸の王様だった
10月19日、たった1人で荷物を持って日本を出た。ドーハ、ロシアとW杯を転戦し、その後は米国で武者修行。帰国は12月の予定だ。「まだまだ自分の知らないことがたくさんある。世界トップのトレーニングも見てみたい。もっと研ぎ澄ませていきたい」。
東京五輪が延期になる前、金メダルの本命として、多くのスポンサーに支えられていた。恵まれた環境を当たり前だと勘違いしていた。「本当に自分勝手だった。オレさえよければ、すべていいと。錯覚を起こして、裸の王様だった」。
イチから出直した東京五輪では、SNSの声などに過剰反応して冷静さを失った。そして子どものころからの夢である五輪金メダルをまた逃した。ふと見ると、自分で物事を決めて我が道を堂々と歩んでいく海外のスイマーがいる。「自分はなぜ、周囲の声に左右されていたんだろう。今、思えばですが」。崩れてしまった自分が情けなかった。
■後戻りはしない
すべては自分を変えるためだった。プロとして自立した選手になること。活躍し続けること。もっと視野を広げること。その上で将来、やりたいこともある。
「次世代の子たちに最新のトレーニングをクリニックなどで伝えたい。自分の経験を幅広く。プロになることで、水泳教室を開催する自由度が広がる」。
もう後戻りはできないし、するつもりもない。優佳夫人から「とにかくパリまで自分が好きなように競技をやってみたら」と言われ、感謝している。プロにはなるが、日本水連に対してジュニア時代から強化合宿で成長を促してもらった感謝の気持ちもある。同連盟の普及活動にも積極的に参加していくつもりだ。
■日本代表を外れるまで現役を続ける
3年後のパリ五輪に向けて思い描く道のりがある。
「今この瞬間を大切に、1日1日を過ごすこと。その積み重ねが強化になる。足踏みせずに毎日を全力で過ごせたら、パリできっと強い自分になって勝負できる」。
瀬戸はすでに現役引退のタイミングを決めている。日本水連は毎春の日本選手権で、その年の日本代表を選出する。ベテランも若手も同じ土俵に立つ「一発勝負」の選考会だ。「代表落ちするまで、挑戦し続けたい。24年パリ五輪も、その先も」。周囲の声に惑うことなく、米国と日本を行き来しながらもっと強くなる。いつか若手に敗れて日本代表を外れるまで泳ぎ続ける-。「本当の意味で自立して、やっていきたい」。
プロ宣言直後の10月下旬。瀬戸はW杯ドーハ大会、同ロシア大会で連続MVPを獲得した。賞金は1大会1万2000ドル(約132万円)。泳ぐことで強化費となる賞金約264万円を手にした。ロシア大会では100メートル個人メドレーで長年のライバルだった萩野公介の日本記録を0秒01更新。指先にも満たない、ほんのわずかな差かもしれない。それでもライバルを超えて、過去の自分を超えていく決意がつまった0秒01だった。【益田一弘】