プロボクシング元WBC世界ライト世界王者のガッツ石松さん(73)は、第2の人生でも人気タレント、俳優として成功を収めた。
ボクサー時代は11度の敗戦を糧にして世界王座を奪取。5度防衛に成功して、1970年代に一世を風靡(ふうび)した。
引退後はNHK連続テレビ小説「おしん」などでの演技が高く評価され、1980年代以降に個性派俳優として確固たる地位を築いた。
なぜボクシングと芸能界という、まったく異なる2つの世界で頂に立つことができたのか。世界王座奪取から49年となった今年4月、都内でご本人にじっくりと話を聞いた。昨年6月の取材時の証言も合わせて、挫折と栄光が交差した波瀾(はらん)万丈の半生を【ガッツ石松という伝説】と題して連載する。第3回は「重傷を負った“幻の右”、後の阪神ドラ1から安打、それでもボクシングの神様に導かれた」。
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村はずれのバラックのような小さな家で、ガッツ石松(本名・鈴木有二)は4人きょうだいの次男坊として生まれた。出身地の栃木県上都賀郡粟野町(現鹿沼市)は当時、清洲村と呼ばれていた。生家は雨が降ればトタン屋根からひどい雨漏りがした。部屋を仕切る戸板からはすきま風が吹き込んだ。冬の寒さが身に染みたという。
「おやじは病気がちであまり働かなかったね。仕事も好きじゃなかった。一家の家計を支えたのはおふくろだった。よく働いていたね。男たちにまじって道路工事や土木作業の力仕事をやっていた。自分は小遣いなんてなかったから、子どもの頃からアルバイトをしていたんだよね」。
家計を支えるために小学3年から新聞や牛乳の配達を始めた。それでもバス代が払えず、学校の遠足には行けなかった。清洲中に入学すると、ほかにもアルバイト先を探した。近隣に完成した、あられの「柿の種」の製造工場では、後にボクシングで世界を制するあの「幻の右」を、機械に巻き込んでしまった。
「うすの底のもち米を棒で突く機械があって、腹が減っていたから、そのもち米が食べたくて取ったの。そしたら棒を突くボタンに触れてしまって、右の手のひらに棒がドーンと落ちてきて、中指と薬指がつぶれて肉が破裂した。何針も縫う大けがで入院することになってね。だけど、あれだけのケガをしたのに骨は何ともなかった。運が良かったというか、あの頃から神様がボクシングをやるように導いてくれていたんだと思う」。
そう思う理由はほかにもあった。実は子どもの頃、うたた寝をしていて、いろりの火の中に右手を突っ込み、大やけどを負った。今もやけどの痕は残っているが、母親があぜ道を1時間半も負ぶって病院に駆け込んでくれたことで、大事には至らなかった。16歳で上京した後も右手に大きなケガをした。
「アイスクリームを配達するアルバイト中に、バイクを運転していて右手を車の荷台の鍵部分に激しくぶつけて、小指の付け根に穴があくような大ケガをしたの。でも不思議と致命的なことにならなくてね。変形して傷痕が残る右拳を見るたびに、自分は世界チャンピオンになる星の下に生まれたんだと思うね」。
一方で小中学時代は地元では有名なガキ大将だった。中学生まではケンカざんまい。近隣の中学の悪ガキを束ねる総番長だった。中2の春、補導された子分の言い逃れで、ぬれぎぬを着せられ、家庭裁判所に父親と呼び出された。
「そりゃあ、やっちゃダメだということをやっていたよ。でも、あの頃は何かあると『アイツだったらやりかねない』となってね。まあだいたいやってんだけどね。警察に連れていかれて、裁判所に行ってね。田舎だし、あの頃は裁判所なんて行く子どもはいなかったから反省して、一皮むけたんだよね」。
その年の夏、心を入れ替えて野球部に入った。もともと体力には自信があった。中3の時のある試合で、後にボクシングの世界王者となる高い運動能力の片りんを見せる。9回裏2アウトから代打でバッターボックスに入った。マウンドには当時すでに「怪物」と言われていた後に鹿沼農商で甲子園に出場し、日本石油を経て73年のドラフト1位で阪神に入団した早乙女豊投手がいた。
「手元で浮き上がってくるような剛速球だった。それでも振り遅れたけど、打ったらライト前ヒットになってね。これがチーム初のヒットだった。塁に出ると逃げ足が早かったから二塁、三塁と盗塁したんだけど、次の打者が三振して試合は負けたね」。
センスはあった。野球選手になるつもりで、ケンカもやめ、改心して練習に没頭した。しかし、一生懸命になればなるほど、貧しかった当時の自分と、野球の距離が開いていった。いつしか野球部から足が遠ざかったという。
「貧乏人の自分は練習をやるだけ。ユニホームもなければ、グローブやスパイクも買えない。野球部のものを借りてやってはいたけど、試合ではいつも補欠。レギュラーは金持ちのせがればかり。それでも何とかレギュラーになりたくて練習したけど、そうすると腹が減ってくる。みんな弁当を持ってきたり、菓子パンを買って食べていたけど、自分は食べるものがなかった。以前なら子分から巻き上げていたけど、それももうやめてたからね。結局、野球は金がかかるし、腹が減るでしょう。だから、辞めたの」。
人生は何が幸いするか分からない。ちょうどその頃、近所の裕福な家にあった白黒テレビで初めてボクシングを目にした。それが、後に世界王者となるガッツ石松の運命を決定付けることになる。当時はまだ地元にテレビが普及しておらず、人気のボクシング中継がある日は、近所の人たちがテレビのある家に集まって観戦していた。
「そこでやっていたのがファイティング原田さん(当時世界フライ級王者)の試合だった。村中の人が集まってワーッワーッと大騒ぎしてね。これがボクシングなのかと自分も興奮した。ケンカは誰もほめてくれないけど、ボクシングはみんで応援してくれる。オレのことを後ろ指さしている人も、ボクシングだっら拍手してくれるんじゃないかと思って、テレビに出るようなボクサーになろうと決心したんだよね」。
1965年(昭40)3月、中学を卒業して2日後、後にガッツ石松となる鈴木有二は、大志を抱いて上京する。同年12月に就職した工場を辞めて、1度は実家に舞い戻ったが、ボクサーになる夢は揺るがず、翌年1月、再び東京に向かった。世界王者になってみせるというたぎるような思いとともに、もう1つ心に固く誓ったことがあった。
「バッグ1つで出発するときに土木作業員やっていたおふくろが1000円札を手渡してくれたの。『これ持っていけ』ってね。その時、初めて1000円札を見た。うれしくてね。それを右手に握り締めて、強くなって、この1000円を何百倍にして、雨漏りする家を直してやろうと心に決めたの」。
それから苦節9年。74年4月11日、ガッツ石松はついに名王者ロドルフォ・ゴンザレス(メキシコ)を8回KOで撃破して、WBC世界ライト級王座を奪取する。当時は妻と娘と一緒に東京・池袋のアパート暮らし。決して裕福な生活ではなかったが、この試合のファイトマネー150万円は全額、実家を建て直すために両親に差し出した。
それはまた、これからも防衛を続けていくという世界王者としての、強い決意の表れでもあった。マスコミには「5度防衛する」と公言した。層の厚いライト級には世界中に強豪がゴロゴロいる。大番狂わせで王座を奪取した新王者が長期政権を築くのは至難の業。そして、ガッツ石松には挑戦者とともに、もう1つの戦いが待っていた。【首藤正徳】(敬称略)(第4回に続く)
◆ガッツ石松(いしまつ)本名・鈴木有二(すずき・ゆうじ)。1949年(昭24)6月5日、栃木県粟野町(現鹿沼市)生まれ。66年12月プロデビュー。72年東洋ライト級王座獲得。74年にWBC世界ライト級王座獲得。5度防衛。戦績は31勝(17KO)14敗6分け。79年に引退後は個性派俳優として活躍。NHK朝ドラ「おしん」や米映画「太陽の帝国」「ブラック・レイン」などでハリウッドにも進出。08年に鹿沼市民栄誉賞受賞。流行語になった「OK牧場」などユニークな語録でも知られる。



