日本フィギュアの歴史

「天才」伊藤みどり、欧米勢に勝つためのジャンプ

危険も顧みず、ピョンピョンと氷上を跳びはねる幼児がいた。4歳の伊藤みどり(48)。「普通に歩くより、一蹴りして滑る。足を振り上げると跳べて、ミニスカートをひらひらさせながら、くるくる回った」。転倒はいつものことで、頭を打つことも少なくなかったが「怖さはなかった」という。

男の子みたいに、活発な女の子。体育は大好きで、短距離走では常に1番。氷上でも抜群の運動神経を発揮し、先輩たちの動きを見よう見まねでジャンプを繰り返した。まだ5歳だったが、名古屋スポーツセンターで指導していた山田満知子コーチ(74)の目に留まる。小学1年だった6歳から本格的にフィギュアを開始した。

始めて2年足らずの8歳で、3回転ジャンプをマスターした。山田コーチから強制されたわけではない。1回転ジャンプを教わると、自然に2回転、2回転半そして3回転とステップアップできた。「何となくこんな感じかなと。ジャンプ練習が楽しくて仕方なかった」。小学5年からは山田コーチの自宅に住み込んで、競技に集中した。同年12月の全日本選手権では4種類の3回転ジャンプを成功させて3位入賞。「天才スケーター」のあだ名がついた。


80年12月、全日本フィギュア選手権を前に3回転ジャンプの練習をする伊藤みどり
80年12月、全日本フィギュア選手権を前に3回転ジャンプの練習をする伊藤みどり

伊藤と山田コーチの目標は当初から世界だった。フィギュアの伝統があり、日本人と比べてスタイルの良い欧米勢に対抗するにはどうするか。「同じことをして(欧米勢に)埋もれてしまったら、負ける」。小学6年時にはアクセル以外の5種類の3回転ジャンプを成功させている。当時は世界のトップでも1、2種類しか跳べなかった時代。逆にいうと、3回転をたくさん跳んでも勝てるわけではなかったが、得意のジャンプで勝負する決意は、師弟ともに強かった。

伊藤のジャンプの高さは約60センチ。他の選手より10センチ以上高く、男子のトップ選手に肩を並べていた。跳び方も特徴があり、膝がくの字に曲がっている。本来なら駒のように軸は細い方が良く、脚を伸ばして跳ぶことが基本で、見た目もいいとされている。だが、山田コーチは矯正しない。「回りやすいなら美しくなくても良いと。個性を伸ばしてくれた。山田先生がいなければ、今の伊藤みどりはいない」と恩師との出会いに感謝した。

ジャンプを武器に、中学2年で、84年サラエボ五輪出場権を目の前にする。条件は直前1月の全日本選手権優勝。だが、ショートプログラムの最後のダブルアクセルで尻もちをついてしまう。2位で初の五輪はお預けになった。「ダブルアクセルの失敗で五輪に行けなかった。悔しくて、その後はダブルアクセルをたくさん練習した。今になって思えば、それがトリプルアクセルを苦労せずに完成できたことにつながっていたのかもしれない」。そして中学3年から代名詞になるトリプルアクセルへの挑戦が始まる。(敬称略=つづく)(2017年11月23日紙面から。年齢は掲載当時)

◆伊藤(いとう)みどり 1969年(昭44)8月13日、愛知県生まれ。4歳からスケート、6歳から本格的にフィギュアスケートを始める。全日本選手権は11歳の80年度大会で3位となり、15歳の84年度大会から91年度大会まで8連覇、95年度大会も制し、計9度の優勝は女子では史上最多。88年カルガリー五輪5位。89年世界選手権でアジア人として初優勝。92年アルベールビル五輪銀メダル。145センチ。

欧米中心に発展したフィギュアスケート。近年の浅田、羽生、宇野ら日本勢が隆盛を誇るまでには、長い苦難の道程があった。日本フィギュアの足跡をたどる。

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