政府の緊急事態宣言が延長され、スポーツ界も「自粛」状態が続いている。

日刊スポーツの記者が自らの目で見て、耳で聞き、肌で感じた瞬間を紹介する「マイメモリーズ」。サッカー編に続いてオリンピック(五輪)、相撲、バトルなどを担当した記者がお届けする。

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「何も言えねぇ」

北島康介が2008年北京五輪の競泳男子100メートル平泳ぎ決勝を、58秒91の世界新記録で制した直後の言葉は、あまりにも有名だ。だが、その約10年後に「実は山ほど言いたいことはあった」と告白している。

レース直後で、頭を整理しきれなかったのもあるだろう。こみ上げるさまざまな感情が爆発し、涙を流していた。当時の記事に「泣きながら笑った」と書いた。喜びも当然大きかったはずだが、それだけではない。「喜び+何か」。心の奥底まで計り知れず、象徴的な場面を描写した。

思い返すと、重圧からの解放、安堵(あんど)感がレース直後の心のうちを大きく占めていたように思う。その3日後の200メートル決勝は北島が頭一つ抜けた存在。自己ベストで世界のライバルを2~3秒リードしていただけに、五輪史上初の2大会連続の平泳ぎ2冠へ、先に行う100メートルで勝つことが最難関だった。

重圧の最大の要因は新鋭ダーレオーエン(ノルウェー)の存在だった。予選、準決勝はいずれも1位ダーレオーエン、2位北島。04年アテネ五輪前から、男子平泳ぎは北島とハンセン(米国)の2強状態だったが、突然、好タイムを連発する、当時は競泳での五輪メダルゼロ国ノルウェーから無名の若手が現れた。平井伯昌コーチは「普通は準決勝で0秒4も差があると逆転は難しい」と振り返る。

何よりも相手のデータがないことが恐怖だった。準決勝は何割の力で泳いだのか? どんな性格なのか? 04年アテネ五輪は、ライバルのハンセンを丸裸にして勝った。精神面にもろさがあると知っていたハンセンに重圧をかけた。予選、準決勝は余力をほとんど残さず1位通過。じわじわと焦りを誘い、タイムで争う競泳でありながら、柔道やレスリングのように1対1の勝負を仕掛け、勝った。

だが北京五輪ではまったく同じことをダーレオーエンにされていた。「驚異的だった。彼の記録がプレッシャーをかけた」と、金メダルを獲得後に胸のうちを明かしている。しかも、米国の放送時間に合わせて、ほとんど経験のない午前決勝。朝から思い通りに体が動くのか。不安は募った。

そんな北島に、平井コーチは3つの策を授けた。(1)スタートは思い切りよく飛ぶ、(2)ストロークのテンポを落として大きな泳ぎをする、(3)ラスト10メートルはタッチをイメージしてタイミングを計る。意図はすぐに理解した。前半は体力を温存、勝負はタッチの差になる。本格的にコンビを組んで12年の恩師に導かれ、強く、速くなってきた北島は迷わず実践した。ダーレオーエンに先行されたが、焦らず大きな泳ぎで前半は自己最少ストロークに抑えた。3位で折り返すと後半、すぐに先頭に立ち、最後は0秒29差で勝った。平井コーチは「よくあれだけ度胸よく指示通りやってくれた」と驚き、北島は「完璧な理想の泳ぎ」と胸を張った。

開会式の3日後で、競泳代表の主将として、日本の顔として、勢いをもたらす金メダルが使命のような雰囲気が充満していた。しかも北島は常々「銀メダルは負け」「勝たなきゃ意味がない。負けるとは思っていない」などと豪語し、退路を断っていた。「何も言えねぇ」の言葉よりも先に流した涙が、重圧と心情を物語っていた。【高田文太】