【中日週間③荒木雅博】「生まれ変わったら野球はやりたくない」がむしゃらに突き進んだ22年の心技体

39歳で2000安打をクリアした中日荒木雅博内野手の、心技体にフォーカスした特集記事です。グラウンドでのパフォーマンスを思い出しながら読み返すと…有無を言わせない説得力が宿っています。(2017年6月5日~7日掲載。所属、年齢などは当時)

傑作選

日刊スポーツ

右前安打を放ち2000安打を達成=2017年6月

右前安打を放ち2000安打を達成=2017年6月

★【心】立浪、谷繁、山本昌 大先輩に鍛えられた

関わった人はみな、荒木の心を「1本、芯がある」と言う。何度も心が折れそうになったがギブアップしなかった。

「性格でしょう。決めたことは最後までやる。途中でやめたくない」と自己分析。「毎日少しずつ積み重ねる才能はあったと思う」。

これは50歳まで現役を続けた元中日山本昌と全く同じセリフだ。

自分で決めたメニューは必ずやる。仲間が寝坊しても食事に行っても、自分との約束は守る。自信も実力もない選手が前に進むには練習しかない。そう決めて、22年間続けた。

戦う心を強くする出来事があった。

95年1月の阪神・淡路大震災直後、熊本工の内野手としてセンバツに出た。

「街が暗かった。野球どころじゃない。それでも野球を見たいと言ってくれる人がいる。だから全力でやらないと。この仕事は手を抜けない。今につながっているんです」

熊本工時代の荒木=1995年4月

熊本工時代の荒木=1995年4月

1軍では立浪、谷繁ら大先輩と優勝をノルマに戦う日々。スキを見せれば怒鳴られた。

一塁ウッズの威圧感に気圧され、短い距離を正確に投げられない送球イップスになった。二遊間を組む井端の技術についていくのにも必死。

「本当に怖かった。怒られないように毎日が勉強。鍛えられたよ」

後輩たちに背中を見せる立場になり、引退を意識する年齢になった。昨年、森野とともに当時の谷繁監督に呼ばれた。「絶対、言い訳するな。みんながお前らの姿を見ているんだ」

両親にこう言ったことがある。「生まれ変わって、もう1回野球をやるかと言われたら、やりたくない」。苦労人の本音だろう。

★【技】柔らかい足首と企業秘密ノート

技術を語らせたら荒木は冗舌だ。

「野球少年に上達の秘訣(ひけつ)を」と問われ「生活のすべてを野球に関連づけること。自分で考えること。考える力をつければ、うまくなる」と答えた。

入団後、本塁打王の大豊泰昭に仰天した。

「新幹線のホームで、入ってくる車両をボールに見立ててタイミングをとっていた。ドライヤーをかけながら1本足打法の形をやっていた」

簡単に見える盗塁にも、22年間培った技術が詰まっています=2017年5月

簡単に見える盗塁にも、22年間培った技術が詰まっています=2017年5月

2軍時代から相手データを徹底分析。ノートには投手だけでなく捕手の特徴まで書き込んだ。1軍で盗塁を期待されるようになってからは投手のクセが見つかるまでビデオをすり切れるほど見た。

中日は相手のシートノックを野手全員で見る。荒木は今も、個々の体調まで見ている。

足首の関節が人より柔らかいため、予備動作なしに帰塁も、スタートも切れる。身体的な特性をとことん生かした。

企業秘密で詳しくは語らないが、打席で感じた投手のクセを盗塁に生かしているという。

08年北京五輪の準決勝韓国戦。7回に一、二塁間を抜かれ同点にされた。シフトをとろうか迷っていた矢先。その後、逆転されて敗れた。

「もう後悔したくない。思ったらすぐに動こうと決めた」

北京五輪韓国戦、阿部が二塁に大暴投。荒木雅博(右)が飛びつくも及ばず、中島裕之はぼう然=2008年8月16日

北京五輪韓国戦、阿部が二塁に大暴投。荒木雅博(右)が飛びつくも及ばず、中島裕之はぼう然=2008年8月16日

真骨頂は超人的な守備範囲、そして走塁技術。野球人生を支えたプレーには経験と練習の裏付けがあった。

「何かを求めて、毎年いろいろ試してきた。その気持ちがなくなったらやめるとき。失敗して覚えての繰り返し」。誇れる技術も、22年間かけて培った。

★【体】動きにサルを見た星野監督

荒木は小学校でソフトボール、剣道、サッカーと習っていた。中学では野球に陸上。

運動神経は陸上やバレーボールをやっていた母良子さん(63)譲り。大きな病気は小1のとき肺炎で入院したくらいだ。

熊本工では決して突出した存在ではなかったが、早川実スカウトの推薦で、ドラフト1位指名された。当時の星野仙一監督は「そんな選手知らん」。

それでも「キャンプで身体能力を見て、ひょっとしたらと。木から木にわたるサルのようだった」と振り返る。打撃を酷評されても、強い体がプロでの命綱になった。

猛練習にも耐えられた。星野監督は「福留、井端、荒木には特別メニューを課したが、3人はそれに耐えた。ノッカーの高代コーチが肘を壊して手術したくらいだから」。

その後の落合博満監督時代、常勝軍団のレギュラーになっても井端と競うように特打、特守の毎日。中日キャンプの象徴的シーンだった。

春季キャンプで二塁の井端弘和へグラブトス=2008年2月

春季キャンプで二塁の井端弘和へグラブトス=2008年2月

ケガに耐える力もある。

高校3年のセンバツを前に、右手人さし指を骨折。土手に座り込んで泣いた。念願の甲子園も不完全燃焼。ケガはまっぴら。プロでは自分から痛いと言わなかった。

「荒木が痛いと言ったら相当ヤバい」は歴代コーチ陣の共通認識。痛み止めの注射を打ち、錠剤で胃を痛めたことは何度もある。

「頭より体を動かす選手。最後までがむしゃら。それは変えられない」

達成翌日もルーティンの二塁ノックを軽快にこなした。授かった強さと、不断の努力で、いまだ若手と同じように走り続けている。