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橋本が死ぬなんて…40歳脳幹出血

橋本真也さん

 破壊王死す!! 人気プロレスラー橋本真也さんが05年7月11日午前10時36分、横浜市内の病院で脳幹出血で死去した。40歳の若さだった。同市内の自宅で倒れて救急車で搬送されたが、すでに心肺停止の状態だった。橋本さんは84年4月、新日本プロレスに入門し、同期の蝶野正洋(41)武藤敬司(42)と闘魂三銃士として人気を集めた。00年11月には新団体ゼロワンを旗揚げしたが、団体経営と右肩痛に苦しんで昨年11月、活動停止を発表。長期休養からフリーとして復活に備えていた矢先の急死だった。岐阜県出身。

 突然すぎる死だった。11日朝、橋本さんは横浜市内の自宅で倒れた。救急車で南区の市立大付属市民総合センターに搬送されたが、すでに心肺停止の状態だった。午前10時36分、脳幹出血のため、帰らぬ人となってしまった。関係者には「今秋にはリングに戻りたい」と右肩痛からの復活に強い意欲をみせていたが、リングに戻らぬまま他界…。無言でプロレス界に別れを告げた。今月3日に40歳を迎えたばかり。あまりにも早すぎる死だった。

 この日夜に横浜市内で会見した橋本さんの代理人、伊藤博弁護士は以前から不整脈を訴えていたことを明かした。母與志江さん(享年50)も橋本さんが16歳の時、同じ病気で倒れて亡くなっており、家系的に高血圧の症状があった。喪主を務める妹真生(まき)さんは「調子が良くないと聞いていて、心配していました。心筋梗塞(こうそく)の疑いがあるので診察してもらうと言っていたのですが…」と言葉を詰まらせた。

 不運な出来事も重なった。昨年12月に手術した右肩は回復に向かい、リハビリを再開していた。しかし今度はひざ痛に苦しみ、最終的には不整脈が体をむしばんだ。今年3月25日にはかずみ夫人との離婚が成立。橋本さんの十年来の友人となる石田克史さんは「新日本時代はケガに強かったのに。悪いことばかりが重なった」と肩を落とした。昨年11月に団体経営の悪化を理由にゼロワンの活動停止を発表したが、数億円といわれる負債は残っている。伊藤弁護士とともに代理人を務める稲垣隆一弁護士は「本人は負債の完済を目標としていた。法的整理も本人が嫌がった。誠意を尽くして完済するためにレスラーとして復帰したいと話していた」と橋本さんの無念さを代弁した。

 一時代を築いた人気レスラーだった。84年に入門した新日本で猪木イズムを受け継ぎ、自ら「闘魂伝承」を背負った。けさ斬りチョップ、太い両足から繰り出す豪快なキック、体重135キロの巨体から見舞った垂直落下式DDTでファンを熱狂させた。戦いは常に真っ向勝負。プロレスの醍醐味(だいごみ)、強さを表現してきた。90年以降は新日本のメーン戦士に成長した。当時、新日本が飛躍を目指して東京ドーム興行で勝負に出た時期。橋本さんのすさまじいファイトがドーム興行を軌道に乗せた。プロレスをメジャー競技に押し上げた立役者だった。IWGP戦の死闘、小川との遺恨戦で世間を夢中にさせた破壊王。プロレス界の枠を超えた人気を誇っていた橋本さんは、もうリングに戻ってこない。

写真=00年12月23日、ノア有明大会で大森にキックをぶち込む橋本さん

◆葬儀日程
 ▼通夜 15日午後6時から、横浜市西区元久保町3の13、一休庵久保山式場で
 ▼葬儀・告別式 16日午後0時30分から、同所で
 ▼喪主 妹橋本真生(まき)さん


三銃士の戦友、蝶野無念、武藤無言

蝶野正洋

 闘魂三銃士のそろい踏みは夢に消えた。橋本さんのまさかの急死。新日本時代からのライバルで闘魂三銃士の蝶野正洋(41)は、橋本さんが息を引き取った横浜市内の病院に急きょ駆け付けた。一方で武藤敬司(42)は正式のコメントを拒否。ともにショックを隠しきれなかった。昨年9月に予定された三銃士の記念興行は諸事情で中止。2人は橋本さんのリング復帰後の実現を待ち望んだが、永遠にかなわなくなった。

 うそだろ。信じられなかった。あの元気なブッチャー(橋本のニックネーム)が死んだ。特に、闘魂三銃士として、新日本の若手時代から切磋琢磨(せっさたくま)してきた蝶野、武藤にとって、橋本の死は、絶対に受け入れたくない事実だった。

 いてもたってもいられなかった。蝶野は、この日の昼、都内の新日本事務所での打ち合わせ中、訃報(ふほう)を聞いた。すぐに、橋本さんが搬送された横浜市内の病院へ向かった。「リング復帰をさせてやれなくて残念…。真っすぐで、妥協をしないレスラーらしいレスラーだった」。一方、武藤は会見を今日12日に延期。全日本関係者によると、気持ちの整理がつかない様子だったという。

 闘魂三銃士といわれた3人は84年、新日本に入門した。デビューも同年秋と一緒。当時、長州らが大量離脱した影響もあり、1年目からチャンスに恵まれた。最初に頭角を現したのが橋本さんだった。6年目の89年にはベイダーの持っていたIWGP王座に初挑戦。その後、武藤はグレート・ムタに変身したり、蝶野はヒールに転向するなど互いに刺激し合って成長してきた。

 00年年末に橋本さんが新日本を解雇、02年1月には武藤が退団。ばらばらになった3人の夢が、闘魂三銃士興行の実現だった。昨年9月に開催寸前も、新日本の反対などにより、再結集は先延ばしになった。蝶野は「三銃士興行を実現したかった…。プロレス界の起爆剤にできず悔しい」と唇をかんだ。

 3人がそろうことは、永遠になくなった。だが、橋本さんが、新日本で、ゼロワンで残した闘魂が消えることはない。「本人がエンジョイした人生ならいいのではないか。太く短く生きると言っているのを聞いていたから」。蝶野は、志半ばで逝った戦友を思いやるようにつぶやいた。

写真=うつろな表情で報道陣の質問に答える蝶野=午後5時すぎ、横浜市内で(撮影・宇治久裕)


ハッスル盟友、小川涙「信じられない」

小川直也

 小川直也(37)はこの日午後10時ごろ、横浜市の斎場でハッスルを共にけん引した橋本さんと悲しみの対面をした。約3時間、盟友のそばに付き添っていた。「本当にバカ野郎だね。最後までわがままなヤツだった。早すぎるよ。子供を残して…」。幼い子供を残して旅立った盟友を口では悪く言ったが、声は途切れがち。あふれそうな涙をこらえるように、何度も天を仰いだ。そして「プロレスは彼の分までオレがこれからも頑張っていく」と遺志を継いで戦うことを誓った。

 先に行われた記者会見では、目に涙をため、唇をかみしめてうつむき、「信じられない」と繰り返した。橋本さんと最後に言葉を交わしたのは、札幌でのハッスルハウス直前の5月12日だった。同月14日の新日本東京ドーム大会へ来場を要請された橋本さんに対し、一緒に新イベントを立ち上げた者として、同日の札幌でのハッスルハウスへの来場を呼び掛けた。すぐに電話で返事があり「復帰までまだ2、3カ月かかるが、万全な姿で戻りたい」とハッスルでの復帰戦を約束してくれた。

 その後もお互い多忙で留守番電話を介しての会話になったが、13、15日のハッスルで何らかの形でファンに姿を見せられればという話をしていたという。過去のプロレスの概念を破壊し、新しい「エンターテインメント・プロレス」創造を目指した2人が再びそろう直前だった。

 小川にとって橋本さんは、プロ格闘家としての歴史そのものだった。97年に柔道からプロレスに転向した初戦でぶつかり、その後も抗争を繰り広げた。00年には橋本さんを一時、引退に追い込んだ。だが体をぶつけ合った者同士、心が通じ合い、01年には共闘に転じた。OH砲として「オレごと刈れ」など合体技を武器に強さを誇示した。

 次の目標が昨年スタートしたハッスルの成功だった。もう一緒にリングで戦うことはできない。だが13日の福岡では、橋本さんの気持ちを背負ってリングに立つ。【来田岳彦】

写真=橋本さんの遺体と対面した小川直也=12日午前1時(撮影・横田敦史)


恩師に不調告白「心臓手術するかも」

橋本真也さんの妹の真生さんと伊藤博弁護士(左)

 橋本さんが育った地元岐阜・土岐市も悲しみに暮れた。橋本さんの幼少時代の柔道の師範で、親代わりだった高塚ほねつぎの高塚正敏整骨師(54)は「2週間前に電話があった。心臓が悪いから手術するかもと知らせてきていた。それでもまさか…」と絶句した。さらに元気のない声で悩みも打ち明けられていた。「7月3日の誕生日に復帰戦をする予定だったけど、先延ばしにしなきゃならなくなったと話していた」と振り返った。

 昨年8月、ゼロワン土岐大会に応援に駆けつけたのが、最後の対面となった橋本さんの妹真生さん(32)も、高塚氏の下で情報収集し、この日夕方に横浜に向かった。深夜には橋本さんの代理人となる弁護士らと記者会見に出席した。「悲しむのはもちろん、驚き戸惑っていた」(高塚氏)。橋本さんの小、中学生時代の同級生・吉田和也さん(40)は「4日前に連絡してきたときは元気だった」と、やはり突然の悲報にやるせない表情をみせた。

 近々、土岐市内では、お別れ会のような追悼セレモニーを開催する計画も浮上している。【瀬津真也】

写真=会見で兄・橋本真也さんとの思い出を語る妹の真生さん。左は伊藤博弁護士(撮影・長谷川元明)


新日ショック、ノアはテンカウント

 橋本真也さんの急死で、古巣の新日本に衝撃が走った。新日本は11日、予定されたG1クライマックスの会見を中止。「橋本選手の訃報(ふほう)に伴い急きょ会見を中止させて頂きました」とのファクスをマスコミ各社に流した。新日本関係者によると、会見出席予定だった平田執行役員も動揺し、会見どころではなかったという。

 かつて橋本さんが付け人を務めた新日本の坂口征二相談役は、橋本さんの搬送された横浜市内の病院に向かった。「バカ野郎。顔を見るまで信じられない。オレより先に逝きやがって。弟みたいにかわいいやつだったよ。あいつを悪く言うやつはいなかった」。若手時代から面倒を見てもらった永田は「信じられない。本当に良くしてもらったから」と言葉少なだった。

 ゼロワン時代に、団体の枠を超えた戦いを求めた橋本さん。1週間後に東京ドーム大会を控えたノアも、この日の高知大会の試合前に追悼のテンカウントを鳴らした。01年3月のゼロワン旗揚げ戦でタッグで対戦した三沢社長は「心から哀悼の意を表します」とのコメントを発表した。

 総合格闘技に押された現状を憂い、誰よりもプロレスを愛した破壊王の死は、プロレス界全体に波紋を呼んだ。


破壊王アラカルト

闘魂三銃士

 ◆空手少年 1965年(昭和40年)7月3日、岐阜県土岐市生まれ。故梶原一騎氏のマンガ「空手バカ一代」に夢中になり、小1から空手道場通い。小学校の卒業文集に「尊敬する人はアントニオ猪木」と書く。

 ◆柔道 中学で柔道を始め、中京商では特待生。中京大進学か就職かで迷うが「前田日明のようになる」と、新日本入りを決意。

 ◆三銃士 84年に入門して、9月の後藤戦で黒星デビュー。88年に同期の武藤敬司、蝶野正洋と闘魂三銃士を結成。新日本をもり立て、その後それぞれ別の道を歩みながらもプロレス界の中心として活躍。

 ◆破壊王 そのファイトスタイルや言動からついたニックネーム。レスラー仲間には、容姿から「ブッチャー」とも呼ばれた。

 ◆DDT デンジャラス・ドライバー・テンリューで、発案者は天龍源一郎。これを習得した橋本は改良を加え、ジャンピングDDTを必殺技として使用。

 ◆タイトル 89年にマサ斎藤と組んで、初タイトルとなるIWGPタッグを獲得。93年には念願のIWGPシングル王座に就く。94年からの9連続防衛は当時の最多記録。03年には全日本の3冠王座を獲得。

 ◆新日本離脱 00年4月の小川戦に敗れて決意。団体からは慰留され、ファンからは引退撤回の嘆願書まで届くが、10月には完全に新日本を離れて新団体ゼロワンを旗揚げした。

 ◆OH砲 5度の遺恨シングル対決を乗り越え、小川直也と結成。01年12月に初タッグを組んだ。刈龍怒(かりゅうど)、オレごと刈れなどの合体技で、強力タッグとして君臨した。

 ◆釣り好き 趣味は釣りで、地方巡業には必ず釣りざおを持って行く。東京の新日本道場近くの多摩川に投網を投げ込んだ話は有名だ。歌も趣味の一つで、96年の「ロックアップ」などアルバムも出した。

 ◆信長 自ら「生まれ変わり」というほど、同じ土岐市出身の織田信長を尊敬する。今年5月には京都・本能寺の墓前で復活を誓ったばかりだった。

 ◆サイズ 183センチ、135キロ。

写真=05年5月9日、闘魂三銃士20周年を迎え勢ぞろいした闘魂三銃士


悼む

ナルシスト、ロマンチスト

橋本真也さん

 豪快な男だった。同郷の偉人・織田信長の生きざまに心酔し「破壊なくして創造なし」が口癖だった。プロレス界の垣根や常識を、あの巨体を揺らし、憎めない笑顔を振りまいて、本当に壊して歩いた。後先を考えず、いつも感情で行動する姿は、生年月日が1日違いのサラリーマン記者には、まぶしかった。敵も多かった、と思う。でも、間違いなく誰からも愛されたプロレスラーだった。

 ナルシストだった。リング上のコスチュームから、殴る蹴る形、攻められる時の表情やマイクアピールのセリフにまで、こだわった。01年10月、NWA王座挑戦のため滞在していたフロリダのホテルで「太く短くの人生でいい。でも、オレは絶対に天下を取る」と真顔で言われた。闘魂三銃士、そしてIWGP王者として猪木後の新日本黄金期に君臨したヒーローは、新世紀に独立起業した新団体での成功も確信していた。しかし、自らの言行に起因するその後のゼロワンのお家騒動、そして右肩のケガからの長期欠場。どんなにか、無念だっただろう。

 ロマンチストでもあった。「悪いけど、ちょっと便せんと筆ペン買ってきてよ」。天下の破壊王からの変なリクエストに、首をかしげながら、成田空港の売店に走った日のことを覚えている。外国人選手発掘のため、米国に旅立つ直前、ノア三沢社長にこんなしゃれたラブレター? を書いた。「永き冬の雪とけて、桜も舞った春も去り、今は梅雨に忍ぶれど、真の晴天来るように、夏の花火を打ち上げましょう」。もう1度、橋本真也のでっかい打ち上げ花火が見たかった。【静岡支局・大石健司(元バトル担当)】

写真=05年4月3日、復活へ気合を見せる

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