【中田誠人(下)】カリブ海の船上で触れた価値観 指導者として、親としての願い

日刊スポーツ・プレミアムでは毎週月曜に「氷現者」と題し、フィギュアスケートに関わる人物のルーツや思いに迫っています。

シリーズ第42弾は、MFアカデミーの中田誠人コーチ(41)を連載中です。全日本選手権4度出場の実績があり、06年の競技引退後は「ロイヤルカリビアン」のクルーズ船やプリンスアイスワールドでアイスショーに出演。長男の璃士(りお、16=TOKIOインカラミ)は24年全日本で2位となりました。

3回連載の下編では、福岡大進学後の道のりを描きます。人との出会いや船上で触れた価値観が、指導者人生の礎となっています。(敬称略)

フィギュア

◆中田誠人(なかた・まこと)1983年12月19日、福岡県北九州市出身。小学4年から本格的に競技開始。小倉西高2年時の00年全日本ジュニア選手権9位。3年時の01年同選手権3位。福岡大1年時の02年ジュニアグランプリ(GP)シリーズ北京大会7位。全日本選手権は4度出場。06年に競技引退後は、08年まで「ロイヤルカリビアン」のクルーズ船のアイスショーに出演。08年から11年までプリンスアイスワールド所属。東伏見FSCでコーチを務め、22年からMFアカデミーでアシスタントヘッドコーチ。長男・璃士(りお)は23年ジュニアGPファイナル優勝、24年全日本選手権2位。次男・琉維主(るいす)は小学5年、三男・序珠亜(じょしゅあ)は同4年。

大学卒業後は船上アイスショーの世界へ

全長338メートルのクルーズ船「フリーダム・オブ・ザ・シーズ」は、カリブ海をゆっくりと進んでいた。

誠人の仕事場は、船上の銀盤だった。

船上のアイスショーに出演していた時の中田誠人コーチ(前列左から1番目=本人提供)

船上のアイスショーに出演していた時の中田誠人コーチ(前列左から1番目=本人提供)

福岡大を卒業すると同時に、飛び乗った豪華客船。国も言葉も異なる仲間たちとともに、2年にわたって船上アイスショーの世界で汗を流した。

「いろいろな人がいて、いろいろな世界を見て、いろいろな経験ができました。私は一番若かったんですけど、すごくかわいがってもらいました」

あれから15年以上が経った今、指導者として、3児の父として、忙しない日々を送る。

目の前の子どもたちへ、願うことがある。

「人からどう思われるかではなく、自分でやりたいことがあれば、それをやってほしいなと思います」

話は18歳のころへとさかのぼる。

しぼんだ希望「自信がなくなっていった」

高校3年生だった2001-02年シーズンは、努力が報われた年だった。

右足の捻挫を乗り越え、全日本ジュニア選手権では自己最高の3位に入った。全日本選手権にも初出場し、12位となった。

年明けの3月にはクロアチアでムラドストトロフィーに出場。人生で初めて海を渡り、日本代表として2位と躍動した。

「全日本はフリーで4回転を跳んで、確かパンクしたはずなんです。ジュニアから推薦で出させてもらったので、恐れもなかったようなことを覚えています。クロアチアの大会はノービスの子も一緒に行って、浅田真央ちゃんや無良崇人くんも出ていました。そういう時代でしたね」

充実感を抱きながら、高校最後の1年を締めくくることができた。

進学した福岡大での1年目は、全日本ジュニア優勝を目標に掲げた。その先に世界ジュニア選手権も見据えていた。

ただ、膨らみかけた希望は、やがてしぼんでいった。

2002年11月下旬。

大学1年の全日本ジュニアは、10位に終わった。

ショートプログラム(SP)4位で迎えながら、フリーは14位と失速。ミスが相次ぎ、高校2年生のころの9位にも届かなかった。

「何もかも環境を変えたからか、うまくいかないことも増えていきました」

GPファイナルの公式練習で最終調整する中田(左)。中央は父誠人コーチ、右は中庭コーチ(2023年12月9日撮影)

GPファイナルの公式練習で最終調整する中田(左)。中央は父誠人コーチ、右は中庭コーチ(2023年12月9日撮影)

進学を機に、福岡市内で一人暮らしを始めた。中高時代を過ごした飯塚市のリンクから、福岡市内のパピオアイスアリーナ(現オーヴィジョンアイスアリーナ福岡)へと練習拠点を移した。

新たに100キロのベンチプレスを持ち上げるトレーニングに着手したり、靴を新調したりしたが、なかなか結果に結びつかなかった。

「今思えば、どういう目的でトレーニングしていたのかを理解していなかったのかもしれないですね。自分の努力や技術不足だとは思いますが、全日本ジュニアで優勝を逃してからは、具体的な目標がなくなっていったように思います」

10位となった全日本ジュニア以降は、日本代表の座からも遠ざかった。

環境の変化に慣れなかったことが一因ではあるが、それは自分が望んだことでもあった。

「高校生までは飯塚のリンクへ親が片道1時間かけて送り迎えをしてくれて、負い目を感じていて。自分がやりたいことに親を巻き込んでいるんじゃないかなと。はやく自分のことは自分でしたいと思っていました」

その思いを胸に秘め、練習の合間には日雇いのアルバイトにも打ち込んだ。

展示会の設営、引っ越しの手伝い、格闘技イベントの警備員。

1日に3つのアルバイトを掛け持ちしたこともあった。

「自分が使いたいお金は、自分でバイトをして稼ごうと思って。1度だけ産婦人科の清掃をする日雇いバイトをした時には、子どもが生まれそうになったので部屋を出ないといけなくなったこともありました。そういう経験をすることが間違っていたとは思わないですが、もっと競技に集中していれば結果は変わっていたかもしれないです」

自分がどうなりたいのか-。

その輪郭が揺らいだ。

月日は流れ、将来を思案する時期へと移ろっていった。

「今しかできないことを」電話越しに授けられた言葉

大学4年生になるころの2005年春。

福岡の街中には、リクルートスーツ姿の学生が増え始めた。

それを横目に見ながら、ぼんやりと将来を思い浮かべていた。

「一般就職することも考えていました。あのころは税理士や公認会計士を目指して、専門学校に行こうかなとも思っていました」

ただ、決心がつかなかった。もう1つの道が浮かんでいた。

「当時はアイスショーへ進む先輩方も何人かいらっしゃったんです。働こうとも思っていましたけど、ショーのことも気になり始めていました」

道を迷う中、手を差し伸べてくれる人がいた。

それがプリンスアイスワールドで活躍していた大島淳だった。

国民スポーツ大会成年男子フリーの演技に臨む大島(右)とグータッチを交わすコーチで父の淳さん(2025年1月29日撮影)

国民スポーツ大会成年男子フリーの演技に臨む大島(右)とグータッチを交わすコーチで父の淳さん(2025年1月29日撮影)

今は息子の光翔らのコーチを務めているが、当時は「伝説のスーパースター」と称されたプロスケーターだった。

誠人は知人をつたって、連絡先を知った。それまで面識すらなかったが、思いきって携帯電話を鳴らした。

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岐阜県不破郡垂井町出身。2022年4月入社。同年夏の高校野球取材では西東京を担当。同年10月からスポーツ部(野球以外の担当)所属。
中学時代は軟式野球部で“ショート”を守ったが、高校では演劇部という異色の経歴。大学時代に結成したカーリングチームでは“セカンド”を務めるも、ドローショットに難がある。